軍神謙信の後継者上杉景勝は寡黙で忠義の士~天地人の名脇役~

日本史に想いを馳せる

戦国時代を代表する名将の一人である上杉謙信の後継ぎとして上杉景勝の名は知られていますが、実は実子ではなく養子です。

大河ドラマ「真田丸」では遠藤憲一さんが演じていい色を出していますが、以前の「天地人」でも北村一輝さんの寡黙な演技が好評を博していましたね。

実際の景勝の性格も口数が少なく寡黙であったそうで、ドラマのイメージに近いのではないかと思われます。

.謙信を後を継いだ直後の織田信長との戦いを切り抜け、武田、北条、徳川といった戦国を代表する大勢力と幾度となく矛を交えながら家を守った実力は相当なものがあるはずです。

そこで今回はその景勝の生涯を追ってみることにします。

誕生

上杉景勝は、1555年、上杉謙信の家臣である上田長尾家当主の長尾政景の次男として、越後坂戸城で誕生しました。幼名は卯松。母親は、謙信の姉である仙桃院です。

兄が早世したために後継ぎとなりますが、1564年に、実父の政景が溺死したことを受けて、子供がいなかった上杉謙信の養子となりました。この際に、元服し、名を喜平次顕景に改めています。

その後、1575年1月、養父謙信に言われて景勝と改名し、併せて弾正少弼の官職を謙信から継承しました。これにより、上杉家の後継者としてみなされるようになります。

御館の乱

謙信は新興著しい織田信長との対立を深めましたが、その最中の1578年に突如として亡くなります。酒の害が原因と言われていますが、後継ぎを指名しないまま亡くなったことで上杉家中は大混乱に陥ります。

というのは、当時謙信には景勝の他に、同名相手である北条家から当主の氏政の弟である景虎を養子として迎えており、景勝と景虎のどちらが家督を継ぐかで家中を二分する争いが勃発しました。

翌1579年まで続くこの騒乱は、御館の乱と呼ばれており、最終的に忠臣の直江兼続の奮闘もあって景勝は勝利します。敗れた景虎は自害し、これによって景勝が上杉家の当主となりました。

秀吉への臣従

景勝は、1586年に上洛し、時の権力者に豊臣秀吉と接見します。この時、従四位下に叙せられ、左近衛権少将に任官しました。これによって、秀吉に臣従することになるのですが、臣従が遅れた北条家がやがて滅亡することになるのを見ると諸大名に先立って動いた景勝には先見の明があったと言えるのではないでしょうか。

秀吉の後ろ盾を得た景勝は、1987年に、長年にわたって抗争状態にあった新発田重家を討ち、再び越後統一を果たすことに成功しています。

1588年にも再度上洛し、従三位に昇叙し、参議に補任しています。続く1589年には近衛中将を兼帯し、羽柴の名字と豊臣の姓を与えられるなど、秀吉政権下において次第に重要な地位を占めるようになっていきました。

1590年の秀吉の小田原攻めでは越後から出兵し、真田昌幸などと協力して上野の北条氏の各城を攻略しています。さらに、1593年には朝鮮出兵に従軍し、実際に朝鮮半島に渡ったりもしています。

こうした働きが認められ、1594年には権中納言に任官、公家武家の法度を徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景とともに連署するなど、豊臣政権の重要施策において、加判する立場となりました。更に、1597年に小早川隆景が死去したことで、五大老の一角を占めるに至っています。

翌年、東国の重石として、秀吉から、豊臣秀吉から陸奥国会津へ移封の命が下ります。石高は約120万石となり、名実ともに大大名となりました。

しかしながら、栄華を極めた秀吉が1598年に亡くなったことで運命は急速に動き始めます。

会津征伐から関ヶ原の戦いへ

秀吉の死去に続き、五大老筆頭の地位にあった前田利家が亡くなると、徳川家康が天下を狙って動き始めます。景勝は、かねてより直江兼続が石田三成と懇意にあったことなどから家康との対立を深めていきました。

1600年、景勝は領内の諸城の補修を命じたり、会津盆地のほぼ中央に神指城の建築を開始するなどといった動きを見せ、これを咎めた家康は領内諸城改修の申し開きをするように召還命令を出しますが有名な直江状をもってこれを拒否しました。

このため、景勝に敵意ありと見做した家康は大軍を率いて景勝討伐に出陣しました。この間隙を縫って三成が挙兵すると、家康は一転西上を開始します。景勝は、東軍方の伊達政宗や最上義光らと慶長出羽合戦と言われる激戦を繰り広げましたが、関ヶ原の戦いで三成ら西軍があっけなく敗れたため、家康に降伏することを余儀なくされました。

家康は子の結城秀康のとりなしもあって、景勝の上洛陳謝を求め、これを受けて景勝は兼続と共に上洛し、家康に謝罪します。これにより、上杉家は存続することが認められるものの領地は出羽米沢の30万石に大幅に減移封されてしました。

米沢移封後

景勝が偉かったのは、長年かかって得た領地を失ったにもかかわらず、減封後は米沢藩の藩政確立に尽力したことです。加えて、家康、秀忠にも忠実に仕え、1603年には江戸に藩邸を与えられ、1605年4月には秀忠の将軍宣下に参列するなど存在感を発揮していきます。

大坂冬の陣ではかつて仕えた豊臣氏と相対することになりましたが、このとき景勝は徳川方に起請文を出して二心ないことを約束しています。そのうえで、兼続とともに出陣し、功績を挙げました。続く大坂夏の陣にも参加し、豊臣家の最期を見届けています。

1619年にはそれまで長きにわたって上杉家を支えた直江兼続を亡くしましたが、以降も幕府の要人として出羽の最上氏が改易となった際に居城である山形城の受け取りを務めるなど活躍を続けています。

1623年に米沢城において69歳で逝去。家督は嫡男の上杉定勝が継承し、米沢藩は幕末まで存続しました。

なお、1922年になって、正三位を贈られています。

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