家康の懐刀・本多正信の生涯~真田昌幸と並ぶ戦国の謀略家として~

日本史に想いを馳せる

徳川家康には、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政という四天王と言われる武勇に優れる4人の武将がいましたが、参謀格としてその覇業を支えた筆頭が本田正信です。

大河ドラマ「真田丸」では、近藤正臣さんが飄々とした役柄で演じられていて、一見すると好々爺のようですが、その裏では泣く子も黙る策略を駆使し、家康を助けています。

そこで今回は、家康をして「友」と呼ばせた正信の生涯を見ていきます。

家康との敵対から臣従へ

本田正信は、1538年に、本多俊正の次男として三河に生まれました。幼少期から、鷹匠として徳川家康に仕えています。

当時の家康は松平元康という名で駿河の今川義元の傘下にあったため、1560年の桶狭間の戦いにも今川方として出陣し、これには正信も同行して織田方の丸根砦を攻めるなどしたようです。その際に、膝を負傷して、それ以来足を引きずるようになったと言われています。ドラマなどで、足を引きずって描かれることが多いのはこのためですね。

桶狭間で義元が信長に討たれた後、家康は三河の大名として独立の道を歩むことになるのですが、1563年に大きな危機を迎えます。

それが、三河で発生した一向一揆で、この際に主要な家臣の半数近くが一揆方に加担しています。

この時、正信も一揆勢に加勢し家康と戦ったのですが、最終的には劣勢となり、徳川家を去ることになります。

その後、戦国の梟雄として名高い松永久秀に一時期士官するも、やがてその元を去って諸国を流浪しています。以降の足取りは定かではありませんが、一節には加賀の一向一揆に参加して信長勢と戦っていたなどとされています。

やがて家康の家臣であった旧知の大久保忠世の仲介で、正信は再び家康に仕えることとなります。時期についてははっきりしませんが、少なくとも本能寺の変が起きた1582年よりも前であったことは確かなようです。

家康の知恵袋

本能寺で信長が横死したとき、正信は家康とともに大阪・堺に滞在中でした。家康は危地を脱するために有名な伊賀越えを決行するのですが、この時、正信も随行したと伝わっています。

無事に国元に帰国した家康は、信長の死に乗じて旧武田領であった、甲斐・信濃を攻略していきますが、その際に正信は武田の遺臣の取込みと、領国経営に才を発揮しました。

また、1586年に佐渡守に叙任されたことで、本多佐渡守の呼び名で知られるようになります。

1590年に豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされると、秀吉は家康を関東に移封します。この時、正信は相模の玉縄城主として1万石を拝領し、さらに関東総奉行として江戸の街づくりなどに貢献しています。

天下統一を果たした秀吉は、1598年に波乱の生涯を閉じます。この頃から正信は表舞台に登場し始め、家康の知恵袋として数々の献策を行うようになります。

1600年の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠に従って中山道を進み、真田昌幸・信繁(幸村)父子の篭る上田城を攻めています。

正信は、城攻めの中止を進言したようですが、結果的に秀忠は関ヶ原で行われた本戦に遅参することとなりました。

幕政の中心人物に

関ヶ原で勝利した家康は、1603年に征夷大将軍に叙任され、晴れて江戸に幕府を開きます。この時も、正信は朝廷との折衝に尽力し、将軍就任に貢献しています。

その家康は1605年に早々と将軍の座を息子の秀忠に譲り隠居します。これは、今後は将軍職は徳川家が受け継いでいくことを天下に示すためであったと言われており、大阪にある豊臣秀頼の権威を明確に否定する意図がありました。

1607年、70歳となった正信ですが、秀忠の家老として引き続き幕政を主導します。1614年には77歳にしてもう一人の家老である大久保忠隣を失脚させ、大きな権力を手中に入れました。

大坂冬の陣・夏の陣でも、参謀として活躍し、冬の陣の和睦後は、子の本多正純と諮って大坂城の総堀を埋めることに成功させるなど最後まで謀略家としての能力をいかんなく発揮しました。

1616年に徳川家康が逝去すると、正信は正純に家督を譲って隠居しますが、その後すぐに家康の後を負うようにこの世を去りました。享年79。

その後

生前正信は、子の正純に対し「我の死後に、汝は必ず増地を賜るだろう。3万石までは本多家に賜る分としてお受けせよ。だがそれ以上は決して受けてはならぬ。もし辞退しなければ、禍が必ず降り懸かるであろう」と説き、主君の秀忠にも正純の所領を今よりも大きくしないように嘆願していました。

正信の死後、正純は幕府の年寄(後の老中)として権勢を振るうことになるのですが、正信の遺訓に反して宇都宮15万5000石の大封を得た結果、周囲の反感を買って宇都宮城釣天井事件と呼ばれる謀略によって失脚することになります。

これによって正純は流罪となり、本多家は改易となりました。

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