今回取り上げるのは、天下人豊臣秀吉の甥である豊臣秀次です。
これまで時代劇などでもあまり描かれることのなかった秀次ですが、2016年の大河ドラマ「真田丸」では新納慎也さんが演じてかなりキーパーソンとして扱われました。
大河ドラマではかなり人のいい人物として描かれていて、長澤まさみさん演じる「きり」との色恋沙汰の行方も話題になりましたね。
実際の秀次は秀吉によって切腹に追い込まれたというイメージが先行してその人物像はあまりよく知られていないので、ここではそんな秀次の経歴を見てみたいと思います。
土豪の息子から三好家の養子へ
秀次は、1568年に尾張の土豪である木下弥助(三好吉房)の長男として生まれました。
彼の運命を決定づけたのは、母親が当時は木下藤吉郎と名乗っていた後の豊臣秀吉の姉である「とも」であったことです。
当時の秀吉は、信長の手足として各地を転戦する日々を過ごしていましたが、幼い秀次にとって転機になったのは、信長の妹お市の方を妻に迎えて義弟となっていた近江の浅井長政が敵対したことです。
秀吉は、浅井攻略に取り掛かるにあたり得意の調略を駆使するのですが、その際にターゲットになったのが、近江宮部城主であった宮部継潤でした。
1572年、5歳となった秀次は、継潤が調略に応じるにあたっての人質としてその養子となり、宮部吉継と名乗ります。
1573年、今度は河内の名家である三好康長(笑岩)の養子となり、さらに名を三好信吉と改めました。
現代であれば小学校に入るかどうかの年齢で、早くも時代の荒波にさらされていることが分かりますね。ちなみに、この時に父親もついでに三好を名乗っています。
秀吉の養子として
本能寺の変で信長が横死し、秀吉が明智光秀を山崎の戦いで破った頃になると、秀次は三好家を去って秀吉の養子になったことが分かっています。
三好姓から羽柴姓に復したので、名前も羽柴信吉となりました。
当時の秀吉には子がなく、数少ない縁故者として秀次の存在は貴重だったのでしょうね。
1583年に柴田勝家との間で起こった賤ヶ岳の戦いにも一軍を率いて出陣し、功績を挙げました。
ここまでは順調だった秀次ですが、ミソをつけたのが1584年に勃発した徳川家康との小牧・長久手の戦いです。
この合戦は一般的には、軍事的には家康の勝利、政治的には秀吉の勝利とみなされることが多いのですが、秀次はその軍事面において手痛い失態を演じてしまいます。
池田恒興、堀秀政、森長可といった錚々たる面々を従えて家康の本拠地である三河を急襲しようとした秀次ですが、逆に徳川四天王の一人である榊原康政に攻められて大敗を喫してしまったのです。
この戦いで、池田、森といった秀吉に近い武将を失ったことは豊臣政権の行く末にとっても大きなダメージとなったと思われます。
しかしながら、この失態を取り戻そうとしたのか、翌1985年の紀伊攻めや続く四国攻めでは一軍を任せられて勲功を挙げています。
この功績が認められたのか、秀吉から近江の八幡山城主として43万石の大封を与えられ、百姓出身にして大名となりました。
1590年、秀吉は、天下統一の総仕上げとして小田原城に北条氏を責めます。この際も秀次は従軍し、山中城を攻略するなどの活躍を見せています。
この結果、尾張と伊勢の一部を加増され、合せて100万石を超える大大名となりました。
2代関白へ
秀次は、領地経営にも手腕を発揮したようで、今に残る記録によると善政を敷いたことが伝わっています。
もっとも、当時はまだ20歳前後でしたので、家臣が優秀だったのかもしれませんが。
順調に天下人に上り詰めた秀吉ですが、そのサクセスストーリーにも陰りが見え始めます。
1591年に年を取ってからようやく生まれた秀吉の子、鶴丸が病によってわずか2歳でこの世を去ってしまいました。これにより世子を失った秀吉から秀次は後継者に指名されることになります。
同年、秀吉から関白の座を譲られ、晴れて後継者としての地位が明らかなものとなりました。しかし、実際には秀吉が権力を手放したわけではなく、二頭体制に移行することになったようです。
関白に就任した秀次は、秀吉が京都に築いた聚楽第に居を移し、そこで政務に励んでいます。
切腹事件
順風満帆に見えた秀次ですが、1593年にその地位を大きく揺るがす出来事が発生します。
50歳を超えてもう子供ができることはないと思われていた秀吉に、待望の男子が誕生したのです。
「お拾い」と名付けられたこの子供は、後の豊臣秀頼ですが、これによって自分の子供を跡継ぎに据えたい秀吉は秀次を疎むようになったといわれています。
一般的には、これが原因で秀次はしばしば乱行を起こすようになり、罪のない人々を撃ち殺したり、聖地である比叡山で狩をしたりするなどして、殺生関白と呼ばれるようになりました。
1595年には、ついに秀吉に対する謀反の嫌疑をかけられることになります。
理由は諸説ありますが、朝廷に多額の献金をした、または諸大名に対し自分に忠誠を誓わせるための連判状の存在が明らかになったためといわれています。
このことによって、秀次は高野山へと追放されることとなり、併せて左大臣と関白の地位も剥奪されてしまいます。
そして、最後にはとうとう秀吉によって切腹を命じられます。享年わずか28歳。
しかしながら、時代に翻弄された劇的な一生でした。秀吉は秀次の死だけでは満足せず、妻子39名もともに処刑するという狂気に走ります。
その中には、側室として上洛したばかりで何ら事情を知らない最上義光の娘なども含まれており、これによって豊臣家は諸大名からの恨みを飼うことになり、行く末に暗雲が立ち込め始めました。
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