浅井長政旧臣・片桐且元~家康に利用され豊臣家を滅亡に導いた悲運の将~

日本史に想いを馳せる

片桐且元は、秀吉亡き後の豊臣家の家老として懸命に秀頼を補佐し、徳川の脅威に立ち向かうも、最後は家康に利用されて豊臣家を攻める側になってしまうという悲運の人とされています。

2016年の大河ドラマ「真田丸」では小林隆さんがお人好しでどこか憎めない役を演じていますが、人がいいゆえに家康に付け込まれる隙があったのかもしれません。

しかしながら、且元は単なるお人よしではなく、戦場にあって武功を上げるなど、秀吉に評価されるだけの実績も有しています。

そこで、今回はその且元の一生に迫ってみることにします。

浅井家家臣として

片桐且元は、近江の浅井長政の家臣であった須賀谷領主の片桐直貞の子として1556年に誕生しました。幼名は市正といったそうです。

元服すると父と同じく浅井家に仕官するのですが、信長の妹のお市の方を妻に迎え義弟となっていた長政は同盟関係にあった越前の朝倉義景が信長に攻められるに至って、突如として信長に反旗を翻します。この原因には諸説あり、よく言われているのは信長が朝倉は攻めないと約束していたにもかかわらず、それを破ったためという見解です。

信長と敵対した長政は奮闘むなしく次第に追い込まれていき、最終的には本拠の小谷城を攻められて滅亡することになります。この時、且元も籠城戦を戦い落城を経験したようです。

このため、長政とお市の方の遺児である、茶々、初、江の三姉妹には格別の思いを抱いていたのではないでしょうか。

小谷城から命からがら落ち延びた且元は、1579年、24歳の時に羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えることになりました。

当時は百姓出身の秀吉が、浅井の旧領である長浜を与えられて、優秀な部下を求めていた時期なので、浅井の旧臣である且元にかかる期待は大きかったのではないかと思われます。

賤ヶ岳七本槍


その且元が天下に名を轟かせたのが、1583年に発生した賤ヶ岳の戦いです。

この一戦は、本能寺の変で倒れた信長の後継者をめぐって秀吉と柴田勝家の間で行われたものですが、猛将として知られた勝家に対し、秀吉がどのように戦うのかが勝敗の分かれ目でした。

この戦いで、且元は一番槍の功績を挙げ、同じく武功を挙げた加藤清正、福島正則、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、粕谷武則とともに、賤ヶ岳七本槍と呼ばれるようになります。

そしてこの功績が認められ、秀吉から3千石の恩賞を受けることになるのですが、これは加藤清正や福島正則と比べて少ないものでした。七本槍といっても必ずしも同列という訳ではなかったようで、清正や正則は他の者と比べられるのを迷惑がっていたなどとも言われています。

賤ヶ岳の戦い後は、且元は馬廻衆となり、徳川家康との小牧・長久手の戦いでは秀吉の本陣の警護を担当しています。

また、これ以外にも検地や、戦いの際の後方支援など奉行として活躍し、1586年には、従五位下東市正に任官され、豊臣姓を賜るなど、秀吉の信頼も厚かったようです。

1592年の文禄の役にも出陣し、朝鮮半島に渡って戦いに参加しています。

秀吉の死後

栄華を極めた秀吉ですが、寄る年波には勝てず、1598年にまだ幼い秀頼を残して波乱に満ちた生涯を閉じます。

且元は、秀頼の補佐役の一人に任じられ、これ以降大阪城番となります。天下の形勢は次第に豊臣から徳川に傾いていく中で、1600年、ついに家康と石田三成との間で天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。

当初、且元は三成に協力していたようですが、関が原で三成が一敗地にまみれた後は、家康に人質を出して敵対しないことを誓っています。

且元は、戦いの責が秀頼に及ぶことのないよう奔走し、この時は豊臣と徳川の調停に成功しました。これにより、戦後は大和の竜田に2万8千石を加増されるとともに、家康から、秀頼の家老を任せられるようになりました。

その後、家康は江戸に幕府を開き、豊臣家の地位がますます脅かされていく中で何とか生き残りを図るべく、1611年には淀殿を説得し、京都・二条城での家康と秀頼の会見を実現させるなどの成果を挙げました。

大坂の陣

関ヶ原以降、何とか小康状態を保ってきた豊臣・徳川両家ですが、1614年に起きた方広寺鐘銘事件で決裂に至ります。

この事件は、秀頼の命により方広寺の改修が行われた際に、納められた鐘に「国家安康君臣豊楽」と銘打たれていたのを、家康の名を分解し、豊臣を君として楽しむという意味で徳川に呪いをかけるものであるという言いがかりをつけて家康が臣従を迫ったものです。

この時、且元は秀頼の名代として家康への申し開きに奔走しますが、逆に老獪な家康にうまく諮られて、最後は淀殿や豊臣家の家臣から徳川への内通を疑われてしまうようになってしまいます。

これによって身の危険を感じた且元は大坂城を出奔し、使者であった且元を追いやったことを口実に家康は豊臣攻めに踏み切ります。

大坂冬の陣、大坂夏の陣では、徳川方に加わり大阪城を攻めることになりますが、冬の陣後に隠居を願い出るなど、複雑な心境だったことが伺い知れます。

大坂夏の陣の20日後、家康がいる駿府城へと向かう途中、京都で病死。

一説には自害したとも言われており、最後まで豊臣家を守りきれなかったことに自責の念を覚えていたのではないでしょうか。

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