武田家最後の当主・勝頼の悲哀に満ちた生涯~大河ドラマで平岳大が好演~

日本史に想いを馳せる

武田家最後の当主として知られる武田勝頼ですが、2016年の大河ドラマ「真田丸」で平幹二郎さんの息子の平岳大さんが好演したことによって、改めて脚光を浴びることになりました。

そこで、今回はこの武田勝頼にスポットライトを当ててみたいと思います。

名門・諏訪家の御曹司

甲斐武田家最後の当主として名を知られる武田勝頼は、1546年、武田晴信(信玄)の四男として誕生しました。

母親は信玄に滅ぼされた諏訪頼重の娘である諏訪御料人で、彼女を側室に迎えることには武田家中でも多くの反対があったようです。

このため、家督を継ぐまでの勝頼は、武田姓ではなく諏訪姓を名乗っています。

1555年、勝頼が10歳の時に母親の諏訪御料人は若くしてこの世を去っています。

その後、正式に諏訪家を継いだ勝頼は、高遠城主として信玄に仕えることになりました。

その信玄は、今川義元を桶狭間で討ち取るなど日の出の勢いであった尾張の織田信長に接近し、その養女を勝頼の正妻に迎えます。

両者の間には、長男の信勝が誕生していますが、出産時に難産のためにこの妻はなくなってしまいました。

信玄の後継者

四男である勝頼には、長兄の義信のほかに、二人の兄がいましたが、このうち次兄は失明のために出家して竜宝と名乗り、その次の兄は幼くして亡くなっていたため、勝頼の後継順位は実質的に二番目でした。

武田義信はなかなかに優れた人物であったようで、順調にいけば勝頼が武田家を継ぐことはなかったはずですが、義信が駿河の今川家から正室を迎えていたことが運命の分かれ目となります。

今川義元が桶狭間で織田信長に討ちとられたことで、今川家は衰退に向かうことになり、その機に乗じて信玄はそれまでの今川との同盟を破って駿河への進攻を画策します。

義信はこれに強く反対し、両者の間には深刻な対立が生まれ、最終的に修復不可能な状況に陥るに至って信玄は義信に自害を求めます。

ここに将来を嘱望された義信はこの世を去ることになり、期せずして勝頼が事実上の後継者となりました。

その後、勝頼は信玄の近くにあって、その軍略を学んでいきます。

1569年には、小田原城攻めに従軍し、三増峠の戦いにおいて大きな戦功を挙げました。

1572年、信玄は悲願の上洛に向けて軍を西に進め、勝頼もこれに従います。

武田軍は、三方が原の戦いにおいて徳川家康を撃破し、更に西を目指しますが、ここで信玄が病に倒れることになり止む無く撤収を図ります。

しかしながら、稀代の名将であった信玄も病には勝てず、甲斐への帰国の途上でこの世を去ることになりました。

武田家当主として

信玄を失った武田家では、譜代の宿老などと、勝頼に近い家臣との間で後継ぎを巡って争いが発生します。

このため、勝頼は正式には当主の座にはつかず、息子の信勝を当主に就かせ、自らはその後継にあたったとも言われています。

信玄の遺言は、自らの死を3年間秘密にせよというもので、勝頼もこれを守ろうとしますが、偉大な信玄の死は隠し通せるものではなく、次第に信玄死すの噂は諸国に広まっていきます。

これを打ち消すべく、勝頼は積極的に外征を展開し、美濃の明智城、遠江の高天神城や長篠城をはじめ、難攻不落とされた多くの城を落とすことに成功します。

このことから、勝頼が軍事に優れた才を持っていたことが見て取れます。

しかしながら、1575年、長篠城を治めていた奥平氏が家康に寝返ったことで、城の奪還を図るも激しい抵抗にあい長期の攻城戦を強いられたことで、織田・徳川連合軍との決戦を強いられたことが勝頼の運命を決定づけました。

この長篠の戦いにおいて、武田軍は惨敗を喫し、信玄以来の多くの有能な武将を失ってしまいました。

滅亡への階段

長篠において一敗地にまみれた勝頼は、挽回を期して、北条家との関係強化を図ります。具体的には、北条氏政の妹である桂林院を妻に迎えることにしました。

これにより、東の憂いを断つことに成功した勝頼でしたが、行き着く暇もなく次の試練が襲い掛かります。

1578年、越後の上杉謙信が突然死去したことで、上杉家に御館の乱と呼ばれる後継者争いが勃発し、北条家出身の景虎が一方の当事者であったことで勝頼もこれに巻き込まれることを余儀なくされました。

当初は景虎を支援した勝頼でしたが、もう一方の景勝からの和睦の申し入れに応じたことにより、上杉との関係は好転するものの、逆に北条との関係が決定的に悪化してしまいます。

これにより、西に織田・徳川、東に北条という難敵を抱え、武田は次第に後がない状況に追い込まれていきます。

1581年には、勝頼が猛攻を仕掛けて落城させた高天神城を徳川家康があっさりと奪い返しました。これを受けて、勝頼は真田昌幸に命じ、甲斐の韮崎に新府城を築城するのですが、人こそが城だといって城を築かなかった信玄以来の伝統に反するこの決定は武田の家中に少なからず動揺を招いたようです。

翌年の1582年には、信玄の娘婿であった木曽義昌が織田方へ寝返ります。

これを受けて、織田・徳川軍が大挙して侵攻してきます。

これに対し、武田方で組織だった抵抗を見せたのは、信濃の高遠城に籠る勝頼の弟の仁科盛信くらいで、それ以外の諸将は潮が引くかのように信長に下って行きました。

中でも、親族衆であった穴山梅雪の裏切りは、折からの凶兆とされた浅間山の噴火と相まって、家中の抵抗の気力をそぐのに十分でした。

勝頼は十分に抗戦することもままならず、重臣の小山田信茂の進言を受け入れて、要害である岩殿城を目指しますが、ここでその信茂の裏切りにあい万事休します。

進退窮まった勝頼は、甲斐の天目山において最後の一戦を経た後に、妻子とともに自害して果て、ここに名門であった甲斐武田氏は滅亡しました。辞世の句は、「おぼろなる月もほのかに雲かすみ晴れて行くへの西の山のは」というものです。

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