忠義の人・宇喜多秀家~大河ドラマ「軍師官兵衛」や「真田丸」でも活躍

日本史に想いを馳せる

宇喜多秀家は、豊臣家の五大老のひとりとして、秀吉への忠義を貫いて関ヶ原を戦った武将として知られていますが、それによってその人生の多くを本州から遠く離れた地で過ごすことになった悲運の人物です。

乱世の権謀術数がうごめく中で、そういった動きとは一線を画してさわやかに散って行った秀家には今なお多くの人が心惹かれていますが、実際には謀略家の父親を持ち、後にはお家騒動に巻き込まれるなど、その一生は波乱に満ちたものでした。

なお、大河ドラマ「真田丸」では高橋和也さんが演じられていましたが、彼は過去の大河ドラマ「風林火山」では武田家の重臣である馬場信春役で出演しています。

信春は真田信繁の祖父である真田信隆とともに信玄を支えた武将でした。

今回はこの秀家の一生を見ていきたいと思います。

乱世の奸雄・宇喜多直家の子

宇喜多秀家は、1573年に、備前国岡山城主である宇喜多直家の子として生まれます。

父親の直家は、齊藤道三や松永久秀と並んで戦国の三悪人とも評されることがあり、裏切りや暗殺など謀略の限りを尽くして備前の大名に成り上がった人物です。

宇喜多家は、西に毛利氏、東に織田氏といういずれも大勢力に囲まれており、その存亡はどちらに付くかによって大きく影響される立場にありました。

直家は持ち前の智謀を駆使して両者の間を渡り歩くのですが、1580年、織田信長の家臣であった羽柴秀吉が中国攻めを開始するにあたって、これまでの毛利方から織田方に乗り換えることとなりました。

この時、若干8歳だった秀家は人質として秀吉の下に身を預けられています。

その翌年、直家はこの世を去りました。

死が近いことを予期して、自家の存続を信長に賭けたのかもしれません。

父の死により秀家は家督を継ぐことになり、信長から本領安堵を得ます。この時、併せて秀吉の猶子となり、以降、両者の間の強い絆が生まれることになりました。

ちなみに、秀家の「秀」という字は、元服時に秀吉の名から一字を拝領したものです。

豊臣恩顧

引き続き毛利攻めに取り組んでいた秀吉ですが、当初の一進一退の状況から形勢を有利に進められるようになり、1582年には毛利方の重要拠点である備中高松城を水攻めにするに至ります。

秀家も10歳ながら参陣しており、これにより身近で秀吉の用兵術を学ぶことができました。

1582年に信長が本能寺の変に倒れると、秀吉は中国大返しを敢行して山﨑の戦いで明智光秀を打ち取り、続く柴田勝家との争いをも制して信長の後継者としての地位を確固たるものにしていきます。

1585年には、土佐の長宗我部元親を攻めるべく四国攻めを行いますが、秀家は讃岐方面の大将として出陣し戦功を挙げています。

1588年、16歳になった秀家は、前田利家の娘で秀吉の養女である豪姫と結婚します。

これにより、豊臣家の一族に準ずる扱いを受けることとなりました。

秀吉の天下統一に向けての九州攻め、小田原攻めにも当然のように出陣しており、文禄・慶長の役でも朝鮮に渡航するなど、秀吉の後半期のほとんどの戦いに加わっています。

1593年には、有名な碧蹄館の戦いで数十万の明軍を撃破するなどの勇名を轟かせました。

こうした働きが認められ、従三位中納言に叙せられるとともに、1598年には晩年の秀吉から徳川家康、前田利家などとともに五大老のひとりに任じられています。

宇喜多騒動


親とも慕った秀吉ですが、1598年に幼い秀頼の身を案じながらこの世を去りました。これ以降、天下は家康を中心に急速に動き出します。

その中で発生したのが、宇喜多騒動と呼ばれる出来事です。

これは、宇喜多家重臣であった戸川秀安や岡利勝などが、秀家の側近の中村次郎兵衛の処分を求めたところ、秀家がこれを拒否したことで起きたお家騒動です。

秀家は騒動の首謀者が秀安として暗殺を謀るも果たせず、これにより渦中に大きな混乱が生じます。

当初は、大谷吉継と家康家臣の榊原康政が仲裁に入るもののうまくいかず、最終的には家康自らが裁定することで、この騒動はようやく決着しました。

しかしながら、秀安をはじめ多くの重臣が去る結果となり、これにより宇喜多家は軍事的、政治的に大きなダメージを受けることとなりました。

この後、秀家は、明石全登を執政とし、家政の回復に努めることになります。

決戦・関ヶ原

秀吉の死後間もない間は、五大老筆頭格の前田利家が睨みを利かせていたため、平穏が保たれていましたが、その利家が1599年に亡くなると、加藤清正や福島正則などの武断派と石田三成・小西行長などの文治派との対立が激化していきます。

この抗争のなかで家康は武断派の取り込みを図り、やがて家康と三成との決戦は避けて通れない状況となっていきます。

1600年、上杉景勝に逆臣の動きありと咎めた家康は、諸将を動員して会津攻めに出陣します。

これを好機と見た三成は、五大老のひとりである毛利輝元を担ぎ、諸大名に号令を発して家康の追い落としを図りました。

この時、秀家は三成らの西軍につき副将を務めることとなりました。緒戦の伏見城攻めでは家康の重臣である鳥居元忠を攻め滅ぼしています。

三成の挙兵の知らせを受けて、東国から家康を対象とする東軍勢が取って返してくると、西軍も美濃に群を進め、両者は関ヶ原において相見えることとなりました。

開戦時の兵力差は大きくなく、また先に関ヶ原に到着したことで、西軍有利な陣形を敷くことができたものの、いざ戦いが始まると主力の一つであった毛利勢や小早川勢が参戦せず、西軍は石田、小西、大谷、宇喜多などが寡兵で東軍の大軍を迎え撃つ形となります。

そのような中、1万7千の軍勢を率いる秀家は、猛将として知られた東軍の福島正則と互角の激闘を繰り広げ、始めのうちはどちらに勝敗が転ぶか予断を許さない状況でした。

しかしながら、様子見を決め込んでいた小早川秀秋などが東軍方に寝返ったことで大勢は決し、味方総崩れとなる中、秀家は伊吹山に逃亡を図ります。

その後、ともに西軍として戦った薩摩の島津家に身を寄せましたが、やがて家康の知るところとなり、1603年に身柄が引き渡されることになりました。

本来であれば西軍の副将として死罪は免れないところでしたが、既に戦いから3年が経過していたことや、妻の生家である前田利長らの懇願もあり、助命されて八丈島に流罪となりました。

流罪後は一度も本土に戻ることはなく、実に在島50年近くを経て、1655年に83歳という長寿を全うしています。

辞世は「涙のみ流れて末は杭瀬川水の泡とや消えむとすらむ」

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