鬼島津こと島津義弘はいかにして関ヶ原の戦いで退き口を達成したのか

日本史に想いを馳せる

島津義弘は、数ある戦国武将でも勇猛で知られる名将であり、大河ドラマの主人公としても期待される人物です。

関ヶ原の戦いではわずかな兵力で徳川本隊に突撃するなど、その生き様には清々しささえ感じさせます。

そこで今回は、島津に暗君なしと言われるほど、歴代知勇に優れた当主に恵まれた島津家の中でもひときわ輝く義弘の生涯を見てみたいと思います。

島津四兄弟

島津義弘は、薩摩の源氏の名門である島津貴久の二男として1535年に誕生しました。

兄の義久、弟の歳久、家久はいずれも文武に秀でた武将であり、島津四兄弟と呼ばれて諸国から恐れられることになります。

当時の島津家は薩摩を中心に大隅、日向などにも勢力を広げつつありましたが、その支配はまだまだ脆弱で各地の勢力との間で戦いに明け暮れています。

その中で、義弘は1554年に大隅の豪族連合との間で起きた岩剣城の戦いにおいて初陣を飾りました。

その後、30歳の時に日向の飯野城主となっています。

1572年には、日向の伊東義祐が3,000の兵をもって攻め寄せてきますが、木崎原の戦いにおいて義弘は10分の1のわずか300の寡兵をもってこれに応戦し、打ち破ることに成功しています。

これにより島津は日向でも伊東氏を次第に圧迫していき、ついに1577年に義祐を追放するに至り、この段階で南九州をほぼ手中に収めることになりました。

九州平定

当時の北九州には豊後の大友宗麟と肥前の龍造寺隆信が二大勢力として存在しており、南から勢力を伸ばした島津はこの両者との対決を深めていくことになります。

まず、島津と交戦に入ったのは大友宗麟でした。キリシタン大名として名高い宗麟ですが、戦国大名としても勢いがあり、中国の毛利氏を間に一歩も引かないなど侮れない力を持っていました。

この大友軍を相手に島津が大勝したのが、1578年に起きた耳川の戦いです。

日向の高城に攻め寄せた大友の大軍(一説には3万とも4万とも)が攻城に手間取っているうちに遅れて到着した島津の本隊が襲い掛かり、これ圧倒しました。

大友軍は有力武将の多くを失い、以降急速に勢力を失っていきます。

一方の龍造寺隆信とは、義弘の弟の家久が肥前の沖田畷の戦いで完勝を収めます。隆信はこの戦いで打ち取られ、これにより島津の名声は九州の全土に轟きました。

1585年、義弘は兄の義久から家督を譲り受けます。

義久には子供がいなかったためということのようですが、時期については諸説あるようです。

また、この後も義久は引き続き領国統治を行っていたようですので、実際に家督が継承されたのかはっきりとは分かっていません。

家督を継いだ義弘は、九州平定に向けてまい進していきます。

手始めに肥後の阿蘇家を下してこれを配下にすると、1587年にはかろうじて大友宗麟に残された筑前と豊前を除く九州のほぼ全土を手中に収めます。

秀吉の九州攻め

しかしながら、時すでに遅く中央では豊臣秀吉による天下統一事業が成し遂げられつつありました。

万事休した宗麟からの救援要請を受けた秀吉は、島津に対して停戦命令を発しますが、義弘はこれを拒否します。

これにより、秀吉は島津攻めを決意し、20万もの兵をもって九州に乗り込んできました。

これに対し、島津側は当初は勢い盛んで初戦の戸次川の戦いでは、豊臣方の長宗我部信親(元親の嫡男)や十河存保といった有力武将を打ち取るなど大勝しています。

しかしながら、彼我の圧倒的な物量差の前に次第に追い詰められていくなかで、義弘は最後まで抵抗を試みるも結局義久から説得されて降伏を余儀なくされました。

これに対し、秀吉は、名門島津を滅ぼすことはなく、薩摩、大隅などを安堵し存続を許しました。これ以降、義弘は豊臣政権の一員として秀吉の命に従って転戦することになります。

文禄・慶長の役では、2度にわたって朝鮮半島に渡り、明・朝鮮軍を相手に各地で戦功を挙げました。現地では鬼島津を意味する「鬼石曼子(グイシーマンズ)」としておそれられ、島津の勇猛さは広く認知されることになります。

1598年に秀吉が没すると、朝鮮出兵も取りやめとなり、撤兵が行われることになりました。この時、義弘は殿軍として、わずかな手兵で朝鮮の英雄であった李舜臣の水軍に勝利しています。

関ヶ原の退き口

1600年、66歳になった義弘がその武名を日本中に知らしめたのが天下分け目の関ヶ原の戦いです。

当初、義弘は徳川家康の東軍につきましたが、石田三成らの西軍が挙兵した際に東軍方の伏見城に入城できなかったため、やむなく西軍に参加することになります。

この直前、島津家は家中の騒動で揺れており、そのために義久と疎遠になった義弘の手元にはわずか1,000人ほどの兵しかありませんでした。

この寡兵をもって決戦に臨むことになった義弘ですが、三成から軽視されたことで、開戦後も動こうとはしませんでした。

島津勢が活動を始めたのは、西軍の敗北が決定的になった後のことで、西軍諸将が背後に逃走を図ろうとする中で、島津勢は何と捨て身の的中突破を狙って家康の本陣に突撃を図りました。

無謀にも思われたこの戦術ですが、結果的に島津豊久や長寿院盛淳といった家臣を失うことになったものの、無事に撤退に成功しています。

海路で薩摩に戻った義弘は家督を義久の子の島津忠恒(家久)に譲り桜島に蟄居しました。

この後、島津家は家康との和議を図ることになりますが、ここにおいても一歩も引くことなく、硬軟織り交ぜた交渉を展開しています。

一時は島津攻めをも考えた家康ですが、最終的には忠恒が上洛し謝罪することによって、島津の存続を許すことにしました。

この後、義弘は後進の指導に専念し、1619年に85歳という長寿を全うしています。晩年には惟新斎という法名にちなんで惟新公とも尊称されました。

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