実は長寿!真田信繁の兄・真田信之の90年を超える人生とは?

日本史に想いを馳せる

兄弟で活躍した戦国武将はそれなりにいますが、敵味方に分かれて二人とも後世に名を遺した人物となると意外に少ないように思えます。

その中でも、今回取り上げる真田信之・信繫(幸村)兄弟は別格の存在感を放っているのではないでしょうか。弟の信繁は大河ドラマ「真田丸」の主人公にもなっており、大坂の陣で徳川家康をあと一歩まで追いつめた武将として江戸時代以来高い人気を誇った人物です。日本人の判官びいきの気質にもよるのかもしれませんね。

弟に比べると知名度ではやや劣る兄の信之ですが、家康の娘婿(妻の稲姫は本多忠勝の娘で家康の養女として信之に嫁いでいます)として江戸幕府でも存在感を発揮し、その子孫は明治維新まで存続するなど真田の名を今に伝える名将でした。真田丸では大泉洋さんが好演し、改めて認知度が高まったかもしれませんね。

武田家滅亡

真田信之は、1566年、武田晴信(信玄)の家臣である真田昌幸の長男として誕生しました。

父親の昌幸は、真田家当主である幸隆の三男であったことから武藤家に養子に出されており、当時は武藤喜兵衛と名乗っていました。弟には真田幸村の名で有名になった信繁がいます。

昌幸・信之父子にとって転機となったのが、1575年に起きた長篠の戦いです。

この一戦で主君武田勝頼は織田・徳川連合軍に大敗を喫し、真田家を継いでいた昌幸の長兄だけでなく次兄も戦死してしまったことで、急遽昌幸が真田家に復して家を継ぐことになりました。

これにより、本拠地である信濃の上田に移っています。

その勝頼は木曽義昌の寝返りをきっかけに織田軍の侵攻を許すことになり、1582年にあっけなく滅亡してしまいます。この時、昌幸は織田信長に降伏し本領安堵を得ました。

天正壬午の乱

こうして真田家は織田傘下に入ることになったのですが、平穏な時は長くは続かず、同年に信長が明智光秀に討たれたことで信濃は激動の時代に突入することになります。

信長は配下の滝川一益を関東管領として関東の北条家に対峙させていましたが、本能寺の変の一報を受けて侵攻してきた北条軍に神流川の戦いで一益は大敗を喫し、領国の伊勢に撤退してしまいます。

これにより信濃は北の上杉、東の北条、南の徳川の三大勢力の草刈り場と化すことになるのですが、当初昌幸は北条氏直に臣従しました。

しかし、氏直に勢いなしと見るや、徳川方からの誘いもあって北条方の沼田城を占拠して家康と結んで北条と敵対するようになります。

ところが、肝心の家康が北条と和議を結び、その際に沼田城の割譲を約束したことで、再び真田家の立場は危ういものとなります。

家康からの城の引渡しの求めに対し、昌幸はこれをきっぱりと拒否し、これによって第一次上田合戦が勃発します。

家康の重臣である鳥居元忠が7,000の兵をもって上田に攻め寄せますが、昌幸はわずか2,000ほどの兵でこれに応戦し、知略を駆使してこれを撃退しました。

この時、信之は支城の戸石城に300ほどの兵を率いて着陣し、巧みに徳川勢をおびき寄せて撃破することに成功しています。

豊臣政権下の真田家

上田合戦で勝利したものの、このままでは徳川に対抗し続けることはできないと見た昌幸は、信長の後継者の地位を固めつつあった豊臣秀吉に臣従することを決心します。

秀吉は、真田家の本領を安堵しますが、その際に徳川の与力となるように命じました。

これまで家康と戦いを繰り広げてきた昌幸としては苦渋の決断だったと思われますが、家の安泰のためにこれを受け入れています。

このとき徳川の与力となったことが、結果的に真田家と信之の行く末に大きな転機をもたらすこととなりました。

家康は、信之の才を認めており、真田の取り込みを図るために重臣の本多忠勝の娘である小松姫(稲姫)を自らの養女としたうえで信之に嫁がせたのです。

これにより、信之は家康の娘婿となりました。

1590年、直前の沼田裁定で真田領とされた名胡桃城を北条方が占拠したことがきっかけとなり、秀吉は小田原攻めを決行すると、昌幸・信之父子もこれに従軍します。

これにより、北条家は滅亡し、沼田城も晴れて真田領として認められました。昌幸は信之にこの城を与えて分家させています。

犬伏の別れ

1598年に天下人・秀吉がこの世を去ると、家康が天下を伺うようになり、またもや動乱の時代が到来します。

1600年、家康は会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、会津征伐を決行します。

この時、昌幸は信之・信繁兄弟とともに征伐軍に加わりますが、途中で石田三成の挙兵の報を得たことにより、東軍・西軍のどちらに加わるかの岐路に立たされることになりました。

ここで、昌幸は信繁とともに西軍に加わることにしましたが、家康の娘婿となっていた信之は父親と袂を分かって東軍に与することになりました。

どちらが勝っても真田家が存続できるようにしたとも言われています。

なお、昌幸は上田に引き揚げる途中で沼田城に立ち寄り、城にいた小松姫に孫の顔が見たいと言って開門を求めていますが、これを城を奪うための戦略であると見破った小松姫は丁重に拒否したという逸話が残っています。

東軍は、家康とその子の秀忠の二隊に分かれて、それぞれ東海道と中山道を西進していきます。信之は秀忠に従って、途中、昌幸と信繁が籠る上田城を攻めることになり、ここに第二次上田合戦が勃発します。

この時も、昌幸は知略の限りを尽くして東軍を翻弄し、城を守り切りました。西に急ぐ必要があった秀忠は早々に攻城戦を切り上げますが、ここで時間を浪費したこともあって結局関ヶ原の決戦には間に合わず、後日家康から叱責を受けることになりました。

戦いは東軍の勝利に終わり、家康は2度も煮え湯を飲まされた昌幸を死罪にしようとしますが、信之は小松姫の親である本多忠勝に助力を仰ぐなどして必死に助命を嘆願します。

これが功を奏し、結局昌幸と信繁は助命され、高野山に流されることとなり、東軍に加わった功績が認められ、信之には昌幸の旧領である上田9万5,000石が与えられることになりました。

なお、この時まで信之は「信幸」という字を用いていましたが、昌幸との決別を示すために「信之」と改名しています。

江戸の世で

その後、昌幸は信繁とともに紀伊の九度山に移され、1611年にその生涯を閉じました。

残された信繁は、1614~15年にかけて起きた大坂の陣に豊臣方として参戦し、冬の陣では真田丸を築いて徳川勢に大きな打撃を与え、夏の陣では家康の本陣深く突入するなどの活躍を見せますが、奮闘むなしく豊臣家と運命を共にしています。

信之は病気を理由にこの戦いには参戦しておらず、代わりに長男の信吉と二男の信政が真田勢を率いて出陣しています。

1622年、信濃松代藩10万石に加増転封され、沼田の3万石と合わせて13万石を領することになりました。

長年連れ添った小松姫とは1620年に死別するのですが、その後も信之は長く生き続けます。1656年、既に90歳を超えていた信之は、長男やその嫡孫が死去していたことから二男の信政に家督を譲って隠居します。

しかし、1658年にその信政が死去したことで信吉の二男の信利と信政の六男の幸道との間で後継者争いが勃発しました。幕府を巻き込んだ騒動となりますが、最終的には幸道が3代藩主となることで決着し、信利は沼田藩3万石として独立することになりました。

この時、幸道はわずか2歳であったため、隠居していた信之が復帰し藩政を執っています。

1658年、信之は93歳の長寿を全うしました。「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり」という辞世の句が伝わっています。

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