大坂の陣の五人衆唯一の生存者・明石全登の謎に満ちた生涯

日本史に想いを馳せる

豊臣家が滅亡した戦いとして名高い大坂の陣において、五人衆と呼ばれる豊臣方の主力を担った5名の武将がいました。

真田信繁(幸村)、毛利勝永、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)とともに、この五人衆に数えられるのが明石全登ですが、名前の読み方をはじめ、その生涯は今なお不明な点が多く残されている人物です。

今回は、2016年の大河ドラマ「真田丸」で小林顕作さんが好演したことでも話題になったこの明石全登の人生を見ていきたいと思います。

宇喜多家家臣

明石全登は、備前を治めていた戦国大名である宇喜多直家の家臣であった明石景親の子として誕生しました。但し、生年ははっきりしていません。

直家というと、様々な謀略を駆使して主君や近親を押しのけて国主の地位にまで上り詰めた下剋上を代表する武将の一人ですが、その一方で家臣を大事にする人物でもあったようです。

やがて全登は元服すると、父と同じく直家に仕えるようになります。

ところで、この全登という名前の読み方ですが、前述のとおり様々な読み方がされていて確実なところははっきりしません。

「たけのり」と読まれることが多いようですが、そのまま「ぜんとう」と言われることもあるようです。

宇喜多家は、西の毛利氏と東の織田氏に挟まれており、どちらかに従属することを余儀なくされる立場にありました。

当初直家は、毛利方に属していましたが、やがて織田信長の家臣であった羽柴秀吉が中国攻めを行うようになると、一転して織田方に鞍替えしました。

ほどなくして直家は亡くなりますが、その後を継いだ秀家が秀吉の寵愛を受けたことが、全登の運命を左右することになります。

キリシタンとして

その後、宇喜多家は天下統一を成し遂げた秀吉の下で平穏なひと時を過ごすことになります。

はっきりとした時期は分かりませんが、いつの頃からか全登は、キリスト教に改宗しキリシタンとして活動していたようです。実際に、屋敷には宣教師を住まわせていたとも言われています。

しかしながら、秀吉がキリスト教を禁止したことにより、国内のキリシタンは厳しい立場に立たされることとなりました。

1597年には、長崎で殉教することになる有名な二十六聖人と呼ばれる人々が備前を通過する際に、全登は手厚く扱ったとも言われています。

関ヶ原の敗戦

1598年に、太閤秀吉がこの世を去ると、これまで安泰だった宇喜多家の行方に暗雲が立ち込めてきます。

当主の秀家は、徳川家康や前田利家とともに五大老の一人として豊臣家を支える立場にありましたが、次第に家康と石田三成の対立が激化するなか三成との距離を縮めていきます。

その最中の1599年、宇喜多家を揺るがす一大事が勃発しました。

宇喜多騒動と呼ばれるこの一件で、これまで執政として家中を取り仕切ってきた長船綱直が殺害されると、彼に近い立場にあった戸川達安・宇喜多詮家(坂崎直盛)・岡貞綱・花房正成といった重臣達も一斉に出奔してしまいます。

これにより、家中に残った有力者として全登は執政として宇喜多家の政務を取り仕切ることになります。

全登は、統治能力も優れていたようで、1年ほどしてひっ迫していた宇喜多家の財政の立て直しに成功するなどの功績を挙げました。

1600年、家康と三成は関ヶ原においてついに激突します。

この戦いで秀家は、副大将として、1万7000の大軍を率いて西軍の中核を担いますが、全登も宇喜多隊の先鋒を務めて、東軍の福島正則勢と激闘を繰り広げます。

勇猛で知られる福島勢を相手に一歩も引かない戦いを見せましたが、小早川秀秋の裏切りをきっかけに西軍が総崩れになると、宇喜多隊も撤退を余儀なくされます。

この時、秀家は討ち死にする覚悟でしたが、それを全登が押しとどめて落ち延びさせたといわれています。

しかしながら、この敗戦によって宇喜多家は改易となり、全登も浪人の身となってしまいました。

大阪の陣・その後

浪人中は、キリシタンということで同じく洗礼を受けていた黒田官兵衛(如水)の下に身を寄せていたようです。

しかし、如水が没し、その子の長政がキリスト教を禁止すると、黒田家を辞して柳川の田中忠政の庇護をうけるようになります。

1606年には関ヶ原の敗戦後、徳川の追討の手を逃れて薩摩の島津家に匿われていた、旧主の秀家が幕府に出頭し、八丈島へと流刑になりました。

このまま浪人として生涯を終えると思われた1614年、それまで微妙なバランスの下に関係を維持していた豊臣と徳川の関係がついに破綻し、大阪冬の陣が勃発します。

恩顧の大名からも支援を得られなかった豊臣秀頼は、秀吉が残した金を使って全国の浪人を招集します。

全登もこれに応じて大坂方に味方しますが、その目的は主に信仰上のものであったようです。徳川家が禁じたキリスト教を再興しようとしたのかもしれません。

冬の陣では目立った活躍の場がないまま和議が結ばれることとなりましたが、その翌年の夏の陣では、道明寺の戦いに参加し、伊達政宗勢などと戦って大打撃を与えるなど武将としての才を発揮しています。

最後の戦いとなった、天王寺・岡山の戦いでは、300名ほどの決死隊を率いて、家康本陣への突入の機を伺うも、先に真田信繁や毛利勝永の友軍が敗退してしまったことから果たせず、的中を突破して戦場を離脱しました。

一説には大坂で戦死したとも言われていますが、落ち延びて生涯を全うしたという伝承も多く残っており、実際に全登の子孫と言われる家系も存在することから、あながち信憑性がないわけでもなさそうです。

最後まで謎の残る生涯ですが、これ以降全登は歴史の表舞台から姿を消すことになりました。

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