豊臣家の公達から世紀の裏切り者へ~小早川秀秋の数奇な運命

日本史に想いを馳せる

関ヶ原の戦いの主役は石田三成と徳川家康ですが、この二人に負けるとも劣らない存在感を放っているのが小早川秀秋です。

関ヶ原まではあまり注目を集めることのなかった秀秋が、現在に至るまで裏切り者の汚名を着せられて歴史に名を残す存在になった背景には何があったのでしょうか。

大河ドラマでは、「軍師官兵衛」と「真田丸」の2作にまたがって、浅利陽介さんが気弱そうな役柄を演じられていますが、実際の秀秋も時代に翻弄されてもがき続けた生涯だったようです。

秀吉の親族として

秀秋は、1582年に尾張の武将であった木下家定の子として、近江長浜の地で誕生します。

この家定が当時羽柴姓を名乗っていた秀吉の妻であるおね(高台院)の兄であったことから、秀吉とは義理の叔父と甥の関係でした。幼名は辰之助といったようです。

秀吉には長らく子がいなかったことから、1584年に辰之助は秀吉の養子になり、その後元服して秀俊と名を改めました。

その後、順調に出世街道を登っていき、1592年にはわずか11歳にして中納言となっています。

これにより、以降は金吾中納言と呼ばれることが多くなりました。また、丹波亀山10万石を拝領し、亀山城主にも就いています。

小早川家へ

順調に出世を重ね、展開次第では秀吉の後継者となる可能性もあった秀俊ですが、1593年に秀吉に実子であるお拾い(後の豊臣秀頼)が生まれたことで大きな岐路を迎えることになります。

50歳を超えてから待望の後継者に恵まれた秀吉は、わが子を溺愛するあまり、その障害となり得る者を排除するようになります。

これにより、秀俊も豊臣家から養子に出されることになりました。

当初、秀吉が考えていたのは、実施のいない中国地方の毛利輝元の下に送ることでした。

しかし、毛利宗家の血筋が乗っ取られることを怖れた輝元の叔父の小早川隆景が自らの養子に迎えることを希望し、これを秀吉が受け入れて小早川家への養子入りが正式に決定し、以降は小早川秀俊、その後改名して秀秋と名乗るようになります。

運命の変転

しかしながら、秀秋の苦難はこれで終わりませんでした。

1595年には、秀吉の後継者として関白の地位にあった豊臣秀次が謀反の嫌疑をかけられて高野山において謹慎を命じられ、その後切腹させられるという事件が発生します。

この時、秀秋にも謀反に加担していた疑いがかけられ、領地を募集されることになってしまいました。

この時は、義父である隆景が家督を秀俊に譲り、筑前や筑後の52万石を承継したことで事なきを得ています。

ところが行き着く間もなく、1597年の慶長の役では朝鮮半島に出兵した際に失態を演じたことで石田三成ら奉行衆から讒訴されて越前に減封されるという目にあいました。

秀秋の人生を翻弄した秀吉は、1598年にこの世を去ります。

関ヶ原の決断

秀吉の死後、抜きんでた力を持っていた徳川家康が天下をうかがうようになると、諸大名は豊臣・徳川のどちらに味方するのかで頭を悩ませることになります。

家康は表向きは豊臣家に臣従する姿勢を保っていたため、しばらくは大事にはなりませんでしたが、次第に三成と家康の対立が抜き差しならない状態になっていきます。

この時、秀秋は家康の取り計らいによって、秀吉による減封処分を解かれ、旧領に復帰しています。これは秀秋に恩を売る家康の巧妙な策略だったのですが、結果的には大きな一手となりました。

1600年、会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして家康は諸将を率いて出陣します。

家康不在の隙をついて三成が畿内で挙兵すると、秀秋もこれに加わります。

やがて両者は関が原で激突することになりますが、秀秋は小早川隊1万5000の大軍を率いて松尾山に陣取ります。

この松尾山は関が原の要衝であり、その気になれば一気に山を下って東軍を窮地に陥れることも可能な位置にありました。

しかしながら、事前の家康の調略によって秀秋は東軍に内通しており、戦いが始まってもその場を動くことはありませんでした。

秀秋動かずの報を受けて、三成は再三にわたって使者を送って督促するも効を奏さず、秀秋は沈黙を続けます。

一方の家康も秀秋が動かないことにしびれを切らし鉄砲を撃ちかけたとされていますが、これは創作の可能性が高いそうです。

やがて意を決した秀秋は、東軍方に寝返り、西軍の大谷吉継隊に襲い掛かります。

事前に裏切りを予想していた吉継の対応により、当初は一進一退の激戦が繰り広げられましたが、小早川隊に連座して脇坂隊なども寝返ったことで大谷隊は壊滅し、これによって戦いの趨勢が決しました。

秀秋は、関ヶ原の後、三成の父である石田正継が守る佐和山城を攻めて、これを落城させています。

これらの功績が認められ、戦後、宇喜多秀家の旧領備前と美作の計52万石を拝領することになりました。

しかし、裏切り者の汚名は拭いがたく、ストレスで酒量が増えたことで身体を壊し、1602年にわずか21歳でこの世を去りました。

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