戦国初期の謀将・尼子経久~毛利元就に影響を与えたその生涯とは?

日本史に想いを馳せる

後に謀将と呼ばれる戦国武将は数多くいますが、その中でもひときわ異彩を放つのが一時は中国地方の大部分を手中に収めるまでに至った尼子経久です。

生まれが早く、武田信玄や上杉謙信などよく知られた戦国大名たちの一世代前に活躍したため、一般にそれほど名が通ってはいませんが、後に飛躍する毛利氏に大きな影響を与えるなど歴史を語るうえで外せない人物の一人です。

1997年に放送された大河ドラマ「毛利元就」では、今は亡き緒方拳さんが「謀多きは勝ち、少なきは敗れる」という教えを中村橋之助さん演じる若き元就に伝えるシーンなど、熟練の演技で老獪な役柄を見事に演じられており、これを機に名前を知った方も多いのではないでしょうか。

そこで、今回は尼子経久の生涯を見ていきます。

出雲守護代として

経久は、1458年に尼子清定の子として出雲で生まれます。幼名は、又四郎と言いました。

まだ応仁の乱が始まる前で、当時の出雲は守護の京極氏の下、尼子家が守護代を務めていました。そのため、経久は比較的毛並みのよい家柄だったと言えます。

1474年から5年間、経久は主君である京極政経に仕えて京都に滞在し、この時に元服して政経の一字をもらって経久と名乗るようになりました。

5年の京都滞在を終えて出雲に戻った後、経久は家督を継ぐことになります。

追放

晴れて尼子家の当主になって以降、経久は次第に国人衆との結束を強くしていきます。

この過程で、京極家の寺社領を接収したりしたことで、幕府や主家の反感を買うようになり、経久は守護代の地位を追われることとなりました。

一説には、出雲から追放されたと言われていますが、実際にはそうではなく地位は失ったものの引き続き出雲に在って一定の権力を保持していたようです。

その後、主君の政経と関係を修復し、1500年には守護代に復帰しています。

やがて、1508年に政経が死去すると、経久は益々権力を握るようになり、次第に出雲の支配者としての地位を確固たるものとしていきます。

応仁の乱を経て幕府の統制が弱まったことも彼の勢力伸長を後押ししました。

勢力拡大

当時の中国地方で一大勢力を築いていたのは、今の山口県である防長を本拠とする大内氏でした。

その当主の義興は、一時上洛して幕政に関与するほどの権勢を誇っており、大内氏との関係をどうするかが尼子家の浮沈のカギを握っていました。

当初のうちはまだ出雲を固め切れていなかったため、経久は、大内氏と誼を結ぶ方向で近づいていたようです。

しかし、国内の問題にめどがつくと、経久の目は次第に大内氏の影響下にある石見や安芸へと向かい始めました。

1521年、経久はついに石見、安芸に侵攻します。

この時、まだ安芸の小領主に過ぎなかった毛利氏に大内方の鏡山城を攻めさせています。

この戦いでは、後に毛利の家督を継ぐことになる元就の策略が功を奏し、城を落城させることに成功しています。

但し、1525年に経久が毛利氏の家督相続に介入しようとしたことがきっかけで、家督を継いだ元就は大内氏に鞍替えすることになり、後々これが大きな禍根を残すこととなりました。

1527年には、伯耆と備後の主語であった山名氏が尼子と敵対関係になり、東西から敵対勢力に挟撃されて経久は窮地に陥りました。

最大の危機は、三男の塩冶興久が反乱を起こしたことでしたが、経久は、この危機を大内氏の支援を仰ぐなど、硬軟織り交ぜた巧みな処世術を駆使して切り抜け、息子を自害に追い込んでいます。

経久は、長男の政久を早くに戦いで失っており、この乱で興久も失ったことは尼子にとって大きなダメージとなりました。

もっとも、これを機に経久は反転攻勢に転じ、山陰を中心に勢力を拡大していきます。

中国地方の老雄

1537年、経久は、嫡孫の詮久に譲ります。

しかしながら、第一線から引くわけではなく、経済的に重要な拠点である石見銀山を大内氏から奪うなど老いてなお活躍を続けていきます。

これ以降、石見銀山を巡って、大内氏との間で奪い合いが続いていくことになります。

老境に差し掛かった経久に代わって、軍事の忠臣となったのは詮久と経久の次男の国久でしたが、彼らは経久ほどの器量はありませんでした。

1540年、詮久は大内方の毛利氏を討伐するために、大挙して安芸へと侵攻し、毛利の本拠地である吉田郡山城を包囲しますが、攻めあぐねるうちに大内の援軍の到着を許し、大敗を喫してしまいます。

これがきっかけとなって尼子の退潮が始まるのですが、1541年に経久は先行きを案じつつ、居城の月山富田城で死去しました。享年84。

なお、経久の死後に義興の後を継いだ大内義隆が大軍を率いて出雲攻めを行いますが、この時、大内方に属していた吉川興経が尼子方に裏切ったことで大きな痛手を被って撤退を余儀なくされます。

この裏切りは、生前に経久が仕込んでおいた策略であるとも言われています。

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