真田信繁をも凌ぐ名将・毛利勝永の大坂の陣での活躍

日本史に想いを馳せる

豊臣家の存亡をかけた大坂の陣において豊臣方として徳川勢に一泡吹かせた武将として真っ先に名前があがるのは、何といっても真田信繁(幸村)ですが、実際には彼よりも活躍した武将が存在しました。

毛利勝永として知られるその武将は、関ヶ原の戦いに敗れて浪人生活を送ったのちに、豊臣方の招きに応じる形で参陣し、長宗我部盛親、後藤又兵衛、明石全登、真田信繁と並んで五人衆と呼ばれる獅子奮迅の働きを見せます。

2018年の大河ドラマ「真田丸」では、元男闘呼組の岡本健一さんが演じ、同じく元メンバーで宇喜多秀家を演じた高橋和也さんとの共演が話題になりました。

今回はこの毛利勝永の生涯を追いたいと思います。

太閤秀吉の家臣

毛利勝永は、1578年に、羽柴秀吉の家臣であった森吉成の子として誕生しました。尾張で生まれたとされていますが、近江という説もあります。

当時の秀吉は、織田信長に仕えており、吉成も信長の命の下、秀吉とともに各地を転戦したものと思われます。

1582年の本能寺の変で信長が倒れると、秀吉はその後継者としての地位を固めていきます。

1587年には九州を平定し、その際活躍した吉成は豊前の小倉城主として6万石が与えられ、勝永も同地に1万石を拝領しました。

もともと、森姓を名乗っていた吉成父子が毛利姓を名乗るようになったのは、これ以降とされており、中国地方の毛利氏に因んで秀吉の指示によって改名したそうです。

これ以降、父の吉成は毛利勝信と名乗っています。

1597年に勃発した慶長の役では、勝信とともに朝鮮半島に出陣し、蔚山城の戦いにおいて大きな戦功を挙げています。

順調に見えた、勝永の生涯ですが、1598年に秀吉が死去したことで一変します。

関ヶ原の敗戦

秀吉の死後、五大老の筆頭格であった徳川家康と石田三成の対立が激化し、1600年に家康が会津の上杉景勝の討伐に向かうと、三成は畿内で挙兵します。

西軍・東軍はいずれも諸大名を味方につけようと、猛烈な取り込み合戦を繰り広げますが、その中で勝信・勝永父子は、長年の秀吉の恩に報いようと西軍に与することになりました。

九州の領国に止まった勝信に代わって、勝永が西軍に加わり、関ヶ原の前哨戦である伏見城攻めでは、城に籠城する家康の重臣である鳥居元忠を相手に一軍を率いて格別の戦いを繰り広げます。

しかしながら、続く安濃津城の戦いや、関ヶ原の本戦では、安国寺恵瓊の傘下に組み入れられたものの目立った活躍はできていません。

本戦では、安国寺勢は毛利秀元率いる3万の大軍とともに南宮山に在陣しましたが、事前に東軍に内通していた毛利重臣の吉川広家が行く手を遮る形で陣を構え動かなかったことで、結局、戦いに加わることができないままに敗戦を迎えることになったようです。

不本意な敗戦を迎えた毛利家は、戦後家康によって改易となり、勝信と勝永の身柄は肥後の加藤清正に預けられることになりました。

逼塞の身

その後、父子の身柄は土佐の山内一豊の下に預け替えになります。

この一豊は、内助の功の逸話で知られた武将ですが、かねてより親交があったことから勝信・勝永は手厚く扱われており、異例なことに領地も与えられていたようです。

土佐の滞在中は、久万村という場所で生活し、1610年には妻の死去に伴って出家し一斎と号しています。

また、同年には父の勝信がこの地で死去しました。

関ヶ原で敗れて改易され、父とともに配流されて、その間に父を失うという境遇は、ちょうど真田昌幸・信繁父子と共通しており、両者が馬首を並べて豊臣家のために戦うことになるのには因縁を感じずにはいられません。

弟も山内家で取り立てられるなど、土佐に骨をうずめるかに思われた1614年、勝永にとって最大の転機が訪れます。

大阪冬の陣

関ヶ原の戦い以降、豊臣と徳川の関係は微妙なバランスの上に辛うじて維持されてきました。

これは、豊臣恩顧の大名が健在であったことから、家康としても豊臣家と事を構えるのをためらったためと思われます。

しかしながら、秀吉の死後15年以上が経過し、加藤清正をはじめとする秀吉子飼いの武将が鬼籍に入ったり、代替わりするようになってきたことに加え、家康自身も高齢となり自分の存命中に決着をつけたいという思いが、両家の対立を決定的なものへとしていきます。

このような状況下で、秀頼の名の下に改修された方広寺の鐘にあった「国家安康 君臣豊楽」という銘について、「家康の名を切り離し、豊臣を君として楽しむ」という意味を含んだものであると徳川方がいいがかりをつけたのを契機に戦いが避けられないものとなりました。

豊臣秀頼は、豊臣恩顧の大名たちに大坂への来援を求める書状を送りますが、徳川の世になって久しくこれに応じる者はありませんでした。

代わりに、豊臣方の主力となったのは、関ヶ原で敗れた浪人衆です。

勝永も秀頼からの招聘を受け、勝永は一計を案じ、徳川方に参じるためと偽って土佐の脱出に成功します。

大坂入城後は、秀吉譜代の家臣であるということで、信望を集め、真田信繁らとともに中心的な役割を担うことになりました。

しかしながら、大坂冬の陣では籠城戦ということもあり、勝永の見せ場は訪れないまま和睦が成立しました。

決戦・夏の陣

勝永が本領を発揮するのは、翌年に起きた大坂夏の陣においてです。

冬の陣の後に、堀の多くを埋め立てられてしまった大阪城は本来の防御力を喪失しており、数に劣る豊臣方は野戦での決戦を余儀なくされます。

家康が「3日分の食料で十分」と言ったほど、彼我の戦力差は大きかったようです。

夏の陣では、道明寺、八尾・若江、天王寺・岡山と3つの大きな戦いが繰り広げられました。

最初の道明寺の戦いでは、大和路から来襲した徳川方を豊臣方が急襲しようとしますが、足並みがそろわずに、五人組の一人である後藤基次を失うことになります。この戦いで勝永は、大阪への撤退を指揮しています。

続く、八尾・若江の戦いは、河内方面から来襲する徳川本軍を長宗我部盛親と木村重成の軍勢が迎撃したものです。

霧を利用して藤堂高虎の軍勢に接近した盛親の作戦が的中し、藤堂勢に多大な死傷者を出すなど健闘したものの、やがて戦力差に圧倒されて重成が戦死することとなりました。

天王寺・岡山の戦いは、文字通り豊臣方の最後の反撃でした。

覚悟を決めた豊臣方は、家康本陣に突っ込むべく、勝永と信繁を中心に布陣します。

勝永隊の進軍はすさまじく、戦いが始まると、徳川勢の先鋒の本多忠朝隊を粉砕して忠朝を討ち取り、その後ろに控えていた小笠原隊をも撃破します(小笠原秀政は致命傷を負い、その子の忠脩は敗死)。

さらに、浅野勢や榊原勢といった名だたる武将が率いる部隊を突破し、ついに家康本陣への突入を果たします。

武田信玄に敗れた三方ヶ原の戦い以来初めて、家康の馬印が倒され、家康自身も二度も自害を口にするなど、勝永隊の攻撃は熾烈を極めました。

真田隊が壊滅するなど次第に劣勢に立たされる豊臣勢にあって、勝永は最後まで部隊を維持し続けますが、衆寡敵せず、大阪城への撤退を余儀なくされます。

勝永は、この撤退も見事な指揮で成功させており、途中で反撃してきた藤堂勢を返り討ちにするなどさらなる戦果を挙げています。

しかしながら、勝永の活躍も実を結ばず、最後の決戦に敗れた豊臣方は5月8日にいよいよ最後の時を迎えます。

勝永は、最後まで守護した秀頼の介錯を務めた後、自害して果てました。享年37。

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