豊臣恩顧の名将~虎退治で名を馳せた加藤清正の生涯

日本史に想いを馳せる

熊本城の築城者である加藤清正は、豊臣秀吉子飼いの勇猛果敢な武将として知られていますが、決して武力一本やりだったわけではなく、知勇兼備の優れた人物であったようです。

2018年の大河ドラマ「真田丸」では新井浩文さんが荒々しくも思慮深さも備えた役回りをうまく演じられていますが、実際の清正のイメージにも近いのではないでしょうか。

今回は、豊臣恩顧として大名にまで取り立てられながら、豊臣家を守りきることができなかった清正の生涯に迫ってみたいと思います。

秀吉の小姓として

清正は、尾張中村の加藤清忠の二男として、1562年に誕生しました。

この中村は秀吉の生誕地でもあり、父親の清忠は刀鍛冶として生計を立てていたようです。

母親が秀吉の妻であるねね(高台院)の従妹(一説には遠縁の親戚とも)であった縁で、1573年12歳になった清正は秀吉の小姓として仕官します。

記録上で最初に清正の名前が登場するのは、1580年に秀吉からの播磨の神東郡内に120石を与える旨の知行宛行状においてです。

ここから清正は秀吉の主要な戦いの多くで活躍することになります。

賤ヶ岳七本槍

1582年に織田信長が本能寺の変で横死すると、秀吉は中国の毛利攻めから畿内にとって返し、山﨑の戦いにおいて明智光秀を撃破します。

清正もこの戦いに参加していますが、なんといっても彼が名を挙げたのは、その翌年に勃発した賤ヶ岳の戦いでした。

賤ヶ岳の戦いは、信長亡き後の織田家の主導権を巡って秀吉と柴田勝家の間で行われたもので、この戦いで清正は柴田方の山路正国という武将を討ち取っています。

この功績が認められ、戦後に秀吉から3,000石の所領が与えられました。

なお、清正は、同じくこの戦いで功のあった福島正則、加藤嘉明、片桐且元、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則の6名とともに、賤ヶ岳七本槍と呼ばれることが多いですが、この中でも清正は正則とともに特に重用されたようです。

1585年に秀吉が関白に就任すると、同じタイミングで清正も従五位下・主計頭に叙任しており、このことからも大きな期待が寄せられていたことが分かります。

肥後の大名

秀吉は、1586年に薩摩の島津氏を屈服させて九州平定を成し遂げると、その旧領であった肥後を佐々成政に与えます。

しかしながら、肥後は国人の勢力が強く、成政は彼らをうまく従わせることができずに大規模な反乱を招くという失態を犯してしまいます。

これにより、成政は失脚し、最終的には秀吉から切腹を命じられることとなりました。

変わって肥後の半分を任せられたのが、反乱の平定に功のあった清正でした。一気に19万5,000石の大名への出世です。

清正は巧みに国人たちを取り込み、順調に領国経営を推し進めています。このことからも、清正が単に武力だけの武将ではないことが分かりますね。

1592年に秀吉が朝鮮出兵の号令をかけると、清正はその先兵として渡海し、活躍します。

しかし、この時、奉行として目付け役であった石田三成が讒言したことにより、秀吉の怒りをかうことになり、帰国して蟄居することになりました。

このことがきっかけで、清正は三成を恨むようになったと言われています。

この蟄居処分は、伏見大地震の際に真っ先に秀吉の下に駆け付けたことにより、改めて清正の忠義が認められ、解かれることになりました。

このように、三成とは確執があったものの、清正は一貫して秀吉に忠誠を誓っていたものと思われます。

1597年の慶長の役でも再び朝鮮半島に渡って武名を挙げますが、その最中の1598年に秀吉が死去したことで帰国の途につきました。

家康と三成の間で

秀吉の死後しばらくは、五大老の筆頭格である徳川家康と前田利家の間でバランスが保たれていたため表向きは平穏が保たれていましたが、間もなくその利家が亡くなると、家康と三成の対立が激化していきます。

1599年、清正は福島正則ら武断派の武将たちとともに三成の襲撃計画を企てます。しかし、この時は、他でもない家康が仲裁に入り計画は未遂に終わりました。

そこまで三成を敵視していた清正ですが、1600年の関ヶ原の戦いには参加していません。

これは、戦いに先立って発生した、薩摩の島津家の内紛である庄内の乱の際に、清正が反乱を起こした伊集院忠真を支援していたことが発覚し、乱の収集を図っていた家康の怒りをかって国元で謹慎していたことが理由です。

もっとも、家康は清正が西軍に味方することを警戒し、事前に自陣への取り込みを図っていました。そのため、清正は九州にあって東軍勢として活躍しています。

これにより、戦後は肥後一国52万石が与えられ、国内有数の大名となりました。

但し、清正の豊臣家への忠臣は依然として大きく、この後も豊臣・徳川の間を取り持って両者の決裂を回避するべく粉骨砕身しています。

1611年、清正は、二条城で行われた家康と豊臣秀頼との会見を実現させました。

秀頼の母である淀君は反対であったようですが、清正が護衛することで折れたとも言われています。

しかし、実際には清正は秀頼ではなく、家康の子である頼宣の護衛役であったようで、真偽のほどは定かではありません。

この会見の後、清正は帰国途中に発病し、熊本に着いた後に死去しました。享年50。

この4年後に大坂夏の陣が勃発し、豊臣家は滅亡することになるのですが、豊臣恩顧の清正が健在であったならば違った歴史になったかもしれません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました