徳川四天王随一の猛将・本多忠勝の生涯~真田信之の妻・稲姫(小松姫)の父として~

日本史に想いを馳せる

江戸幕府を開いた徳川家康には多くの名臣と言われる部下がいましたが、なかでも長くに渡って支えた知勇兼備の酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4名は特に徳川四天王と呼ばれてその活躍が称賛されています。

その一人である本多忠勝は、2018年の大河ドラマ「真田丸」では、初代仮面ライダーとしてもおなじみの藤岡弘、さんが堅物ながらどこかコミカルな演技で好評を博していますが、実際の忠勝も武勇だけでなく、知略にも優れた一流の人物であったようです。

今回は、この忠勝の生涯にスポットを当ててみたいと思います。

家康仕官初期

本多忠勝は、1548年、三河において松平家の譜代家臣である本多忠高の長男として誕生しました。

しかし、父親の忠高が翌年に戦死してしまったことから、幼少期の忠勝は叔父である忠真のもとで育てられたそうです。

松平家の家臣として、当時は松平元康と名乗り今川義元の配下に組み込まれていた後の徳川家康に幼くして仕官し、1560年の義元の上洛作戦に参加する形で初陣を果たしています。

この時、義元は桶狭間の戦いにおいて織田信長に討ちとられてしまい、これが家康が天下に羽ばたく契機となりました。

後に猛将と呼ばれる片鱗は、この頃から早くも示し始めており、14歳の時に参加した鳥屋根城攻めの際に忠真から手柄を譲られることを潔しとせずに、自ら敵陣に切り入って敵の首を取るなどの武功を立てています。

その後、家康は、信長と同盟を締結し、義元を失った今川氏から独立します。

忠勝も家康に従って転戦しますが、1563年に発生した三河一向一揆で大きな危機を迎えます。

この時、後に家康の懐刀となる本田正信など他の本多一族を含む家康の家臣の多くが一揆方に加わる中で、忠勝は一貫して家康への忠義を貫き、武功を挙げてこの難局を切り抜けています。

これにより家康から一層信頼を寄せられることとなり、旗本部隊の将として常に家康に近侍することになりました。

武田襲来

1570年の織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の間で行われた姉川の戦いでは、徳川勢は数に勝る朝倉軍と対峙しましたが、この時、忠勝が単騎で朝倉軍に攻撃を行いこれを救援しようと一丸になって徳川軍が勇躍した結果、戦いを勝利に導くことに成功しています。

家康・忠勝主従に再び試練が訪れたのは、1572年の武田信玄の西上作戦でした。

後には慎重の上にも慎重を重ねる性格で知られるようになる家康もこの頃はまだ血気が盛んであったらしく、当初は籠城戦を志向していたはずが、老練な信玄の策に載せられて三方が原の戦いと呼ばれることになる野戦に引っ張り出されてしまいます。

戦いは数に勝る武田軍の圧勝に終わり、家康も命からがら居城に逃げ帰るという失態を演じますが、一方で忠勝は敗戦の中で武田の山県昌景隊を撃退し、戦いが終わった後に武田方に夜襲をかけて混乱に陥らせるなど、一人気を吐く活躍を見せています。

家康を撃破した信玄ですが、上洛の望みは叶わず、作戦途上に病死してしまいます。

これにより危機を脱した家康は、信長とともに武田に対して反転攻勢に転じ、1575年の長篠の戦いでは、信玄の後を継いだ勝頼に大きな打撃を与えました。

この戦いを含め、忠勝も武田との多くの戦いに出陣し、敵味方から称賛されるほどの武功を立てています。

本能寺の変から豊臣政権下

長篠の戦いの後、衰退に歯止めがかからなくなった武田家は、1582年に織田・徳川軍によって滅ぼされました。

これにより、眼前の脅威が去ったかに見えましたが、その直後に本能寺の変が勃発して信長が横死するという混乱に巻き込まれます。

この時、家康主従は大坂の堺に滞在しており、変の一報を受けた家康が一戦交えようといきり立つのを冷静に諌めたのが他でもない忠勝でした。

彼に導かれた家康一行は、不可能とも思われた伊賀越えを成功させて無事に領国の三河への帰還を果たしています。

信長亡き後の織田家では、羽柴秀吉が後継者としての地位を次第に固めていきましたが、その過程で信長の二男である信雄との対立が深まっていくと、家康はこれを支援して秀吉と一戦に及びます。

この小牧・長久手の戦いでは、当初は忠勝は留守役を命じられていたのですが、秀吉の大軍に見方が苦戦していると知るや前線に駆けつけて敵の眼前で馬の口を洗わせるという豪胆なふるまいを見せ、相手の戦意を削いでいます。このことは、敵である秀吉からも称賛されています。

やがて家康が秀吉に臣従すると、過去に敵対関係にあった信濃の真田昌幸を与力とするように命じられます。

これに応じた家康は、忠勝が寵愛していた娘の稲(小松姫)を自らの養女とした上で、昌幸の長男である信之に嫁がせました。

1590年に秀吉が天下統一を果たすと、家康は後北条氏が治めていた関東に移封されることとなります。

この時、家康は上総の大多喜に10万石を与えて長年の労に報いています。

もっとも、これには安房の里見氏をけん制する狙いがあったと言われています。

関ヶ原以後の活躍

1598年に天下人であった秀吉が死去すると、家康と石田三成との間で天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。

忠勝は本陣にあって、家康の脇を固めていたそうですが、戦に前後して西軍の吉川広家などに書状を送って内応を取り付けるなど、知略家としての一面も見せています。

もちろん、本戦でも奮闘し、多くの敵を打ち取りました。

戦いの功績により、忠勝は西国の抑えとして、伊勢の桑名10万石に移封されます。

石高が変わらなかったのは、家康からの5万石加増の申し出を忠勝が断ったためであり、この5万石は忠勝の次男に与えられました。

桑名では町割りを行ったり、宿場を整備するなどし、後に名君と仰がれる功績を残しています。

1603年に家康が征夷大将軍に就任して江戸に幕府を開くと、忠勝は次第に政治の中枢から遠ざかるようになります。

これは、病気がちになったこともありますが、彼自身が戦乱が終息した世における自らの引き際をわきまえていたこともあるのではないでしょうか。

戦乱が本当に収束するのは1615年の大坂の陣で豊臣家が滅んだのちですが、それを見届けることなく1610年に忠勝は63歳でこの世を去っています。

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