ヒキガエルは日本に古くから生息しているカエルで、別名「ガマガエル」とも呼ばれています。
時代劇ファンの方の中には、ヒキガエルを連れて油を売り歩く、通称「ガマの油売り」と呼ばれる人々の姿を目にしたことがあるのではないでしょうか。
ここでは、ガマの油売りは実際に存在したのか?また、ヒキガエルとはどのような関係にあるのかを見ていきます。
ガマの油売りとは?
このような軽快な一説で始まる口上を聞いて何のことだか分かる方は、なかなかの時代劇マニアです。
これは、ガマの油売りとして知られる行商人が路上で商品をアピールする際に用いた定番の売り口上なのですが、実際にそのような商人は存在したのでしょうか。
実は、ガマの油売りは実在しており、その起源は17世紀初頭に勃発した徳川氏と豊臣氏の最後の戦いである大坂の陣に遡ります。
戦の際に徳川方として従軍した筑波山の中禅寺の住職である光誉上人という人物が、持ち歩いていた陣中薬が、非常に効能が高いと評判になったのがガマの油の期限であると言われています。
ガマの油とは?
では、このガマの油とはいったいどのようなものなのでしょうか?
ガマというと植物の蒲を思い浮かべる方もいるかもしれませんが、ガマの油のガマは「蒲」ではなく「ガマガエル」こと「ヒキガエル」の油のことなのです。
前述の光誉上人が暮らしていた筑波山の一帯では、昔からヒキガエルが分泌する蟾酥(せんそ)と呼ばれる物質を使って膏薬が作られていました。
この蟾酥には、鎮痛作用や局所麻酔作用、止血作用といった戦いの際に役に立つ様々な効能が秘められており、またそれに加えて強心作用もあるために、戦以外の場面でも次第に重宝されるようになります。
そのため、大坂の陣以降、このガマの油は急速に日本全国に広がり、街のあちこちで行商人によって販売される場面が目に付くようになったのです。
口上はいつできたのか?
では、ガマの油売りの代名詞ともいえる口上は、いつ頃、どのようにして誕生したのでしょうか。
一説によると、口上を生み出したのは、江戸時代に筑波山麓の新治村に住んでいた永井の兵助という人物が、筑波山の山頂で自分の10倍以上もの大きさのガマガエルから促されて口上を考え、江戸の浅草寺で披露したというのが始まりであると言われています。
実際には人の10倍もの大きさのカエルはいないため、この言い伝えは必ずしも事実とは考えられませんが、火のない所に煙は立たないので、おそらくは江戸時代に筑波山の山麓で作られたというのは間違いないでしょう。
その後、この口上は主に祭りなどの際に露店で大道芸を披露していた香具師と呼ばれる人々の間で受け継がれ、祭りと言えばガマの油売りといえるほどにメジャーなものとなっていったのです。
現在のガマの油売り
このように江戸時代の文化として定着したガマの油売りですが、現在でも存在しているのでしょうか。
実は、あまり知られていないかもしれませんが、ガマの油売りは伝統芸能に姿を変えて、今でも全国各地で受け継がれているのです。
その中心になっているのは筑波山ガマ口上保存会という団体で、口上を実演したり、各地で講習を行うといったガマの油売りの文化を絶やさないための取り組みを続けています。
その甲斐もあって、2013年には「筑波山ガマ油売り口上」がつくば市の認定地域無形民俗文化財に認定されたのです。
まとめ
ガマの油売りは、現在でも日本各地でその口上を耳にすることができます。
その様子を見かけたら、ぜひヒキガエルのことも思い出してみてくださいね。
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