今川義元は、大軍を率いながら油断して織田信長に討たれた間抜けな武将と思われがちですが、実際には外交や内政に優れた手腕を見せた戦国時代でも有数の優れた人物でした。
その最期が衝撃的すぎるがゆえに、映画やゲームでも頭のネジが緩んだ人物描写がなされることが多いのですが、そのイメージを大きく変えたのが、大河ドラマ「風林火山」で谷原章介さん、同じく「麒麟が来る」で片岡愛之助さんが演じた冷静沈着なキャラクターではないでしょうか。
実際の義元も、いくつもの危機を乗り越えて今川家の最大版図を築き上げており、その業績は色あせることはありません。
そこで、今回は悲劇の名将・今川義元の生涯を追ってみたいと思います。
幼少期
後に街道一の弓取りとして名を馳せることになる今川義元は、1519年、駿河の守護大名である今川氏親の五男として誕生します。
五男ということで家督を継承する見込みが低かったことから、後で跡目争いに巻き込まれることを避けるために4歳の時に出家し、今川家の禅僧である太原雪斎の下で養育されることになりました。この時の出家名は、梅岳承芳です。
1526年、父の氏親が死去すると、義元の兄である氏輝が家督を相続します。
義元は他にも彦五郎という兄がおり、氏輝に何かあっても跡取りとなる可能性はこの時点でもかなり低い状況でした。
そのため、13歳になった時、義元は雪斎とともに上京し、京都五山で学問を修めています。その後、氏輝の命を受けて駿河に帰国しています。
花倉の乱
義元の運命が激変したのは、1535年のことでした。
この年、当主である氏輝が若くして急死してしまいます。
そして、驚くことに、ほぼ時を同じくして彦五郎もこの世を去り、今川家は瞬く間に跡継ぎを巡り混乱状態に陥りました。
氏輝の死を機に、義元は還俗し、当時の室町将軍の足利義晴の偏諱を受けてこの時から正式に「今川義元」を名乗り始めます。
しかしながら、義元には同じく出家のみにあった玄広恵探という兄がおり、重臣である福島氏がこちらを後継者として推したことから、後継者争いが勃発します。
恵探が花倉城を居城としていたことから、花倉の乱と呼ばれるこの争いは、最終的に相模の後北条氏を味方に付けた義元側の勝利に終わります。
家臣の奮闘はもちろんのこと、父・氏親の正室であった寿桂尼を母に持つという義元の血筋の良さも勝敗に大きく影響したようです。
街道一の弓取りとして
正式に家督を継いだ義元は、1537年、それまで敵対していた甲斐の武田信虎(信玄の父)と同盟を結び、その娘を正室に迎えます。
これによって、それまで友好関係にあった北条家との関係が悪化し、その間隙をついて西からは尾張の織田信秀(信長の父)の攻勢を許すことになりました。
当時、尾張の隣の三河を治めていたのは、後の徳川家康の父である松平広忠でした。
この広忠を救援すべく、義元は派兵しましたが、この時の第一次小豆坂の戦いで今川軍は手痛い敗北を喫しています。
このように、家督を継いでしばらくはかなり不安定な状態が続きましたが、義元は次第にその才を発揮してこの難局を切り抜けていきます。
その過程で、松平氏は今川氏に臣従するようになり、その証として嫡男である竹千代(後の家康)を人質として駿河に送りましたが、この時、家臣の裏切りにより彼は織田方に送られてしまうことになります。
1548年には、その信秀との間で再戦が行われ、第二次小豆坂の戦いと呼ばれるこの戦いに義元は圧勝し、見事リベンジを果たしました。
この時、人質交換が行われて、竹千代は義元の下に行くことになり、以降しばらく太原雪斎の薫陶を受けることになります。
この戦いで従来の駿河、遠江に加え、三河を手中にした義元は、街道一の弓取りと呼ばれるようになりました。
ちなみに、ここで街道というのは、東海道のことです。
1554年には、北条氏康の娘を息子の氏真の嫁に迎えることで、甲斐の武田氏も交えた三国同盟を締結することに成功しました。
このように、外交を駆使して何度も有利な状況を作り出していることから、なかなかに外交力のあった武将であったことが分かるのではないでしょうか。
桶狭間の悲劇
このように、順調に領国を拡大し、後顧の憂いを断った義元は、いよいよ宿願であった上洛の準備に取り掛かります。
この時、僧籍にありながら軍師として長年にわたって義元を支えた雪斎は既にこの世になく、このことが今川の行く末に暗い影を落とすことになります。
上洛の最大の障害となったのは、信秀の後を継いだ織田信長でした。
1560年、義元は天下に号令をかけるべく2万を超える大軍を率いて上洛戦を開始します。
なお、一説にはこの時の戦いは上洛を目指すものではなく、織田家を殲滅するためのものであったともいわれています。
彼我の圧倒的な戦略差をバックに、今川軍は織田方の各砦を攻略し、順調に進撃していきますが、ここに大きな落とし穴がありました。
先端が大きく伸びたことで、義元の本体が孤立することになり、その隙を信長の本隊に急襲されることになったのです。
この時、信長は意図的に義元本体を狙ったとも、偶然に遭遇したのが義元隊だったとも言われています。
義元は自らも刀を抜いて抗戦するも、抵抗むなしく織田家臣の毛利良勝によって首を取られてしまいました。
これにより、隆盛を誇った今川家の勢いは急速に衰え、やがて甲斐の武田信玄の侵略を許すことになるのです。
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