細川忠興とその妻ガラシャ~戦国の教養人と明智光秀の娘の生涯

日本史に想いを馳せる

細川忠興は、父の藤孝とともに教養人として知られる一方、豊臣秀吉、徳川家康という天下人に仕えて幾度となく功を立てるなど武将としても優れた才能を持ち合わせていました。

その妻であるガラシャは、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公でもある明智光秀の娘として数々の悲劇に立ち会うことになりますが、夫婦仲は円満だったようです。

今回は、この両名にスポットを当ててみたいと思います。

藤孝の息子・光秀の娘

細川忠興は、1563年に足利家の幕臣である細川藤孝の子として誕生しました。

父の藤孝は幽斎としても知られる教養人で、その血を受け継いだ忠興も、後に利休七哲に数えられるような茶人・教養人として名を馳せることになります。

一方、後に忠興の妻となる細川ガラシャは、明智光秀の娘として1563年に生を受けました。

ガラシャというのは洗礼名であり、明智玉というのが本名です。当時の光秀は、まだ織田信長に仕官する前で、越前の朝倉義景の下に身を寄せていたものと思われます。

光秀が朝倉家にいたのは、主君である足利義昭の上洛の支援を仰ぐ目的からでしたが、義景にはその器量が欠けていると判断し、早々にその元を辞して放浪の旅に出ています。

その後、1568年にその当時勢力を拡大しつつあった信長に仕えることになりました。

それに遅れること数年、義昭に仕えていた藤孝も1573年に同じく主君を見限り、当時日の出の勢いであった織田信長に仕官しています。

この時、藤孝が先に織田に乗り換えていた明智光秀の与力とされたことで、忠興とガラシャは運命の出会いを果たすことになりました。

1578年に忠興は元服、翌年に信長の仲介によりガラシャと結婚することになりました。

その後、1580年に藤孝・忠興父子は、丹後の一色氏を攻略し、その功績により丹後一国を信長から与えられます。

本能寺の転機

1582年、ここまで順調に来ていた細川父子に運命の岐路が訪れます。

この年、光秀が本能寺の変において主君・信長を自害に追いやったのです。

光秀は、自らの与力であった細川家が当然に味方してくれるものと考えており、何度も出兵を催促しています。

これに対し、藤孝は、主君を裏切った光秀の行為を義に反するとして否定し、藤孝が幽斎と号して隠居するとともに、ガラシャを幽閉することで旗幟を鮮明にしました。

藤孝の隠居に伴い、忠興は家督を譲られ、細川家の当主として田辺城(舞鶴城)の城主となります。

結局、細川家の支援を得られなかった光秀は、本能寺の変からわずか11日ほどで、毛利攻めを中止して中国大返しを敢行した羽柴秀吉と山﨑において合戦して敗れ、落ち武者狩りにあって命を落としてしまいました。

ガラシャにしてみると、父親が哀れな最期を遂げることになってしまい、世の無常が身に染みたのではないでしょうか。

その後、忠興は、光秀を撃破した秀吉に仕えることを決断します。

多くの織田家臣の支援を得た秀吉は、次第に信長の後継者としての地位を確固たるものにしていくのです。

豊臣政権下での活躍

1583年には織田家の実力者である柴田勝家と秀吉の間で賤ヶ岳の戦いが勃発し、忠興も出陣して戦功を立てました。

また、続く1984年の小牧・長久手の戦いでも、織田信雄に勝利するなどの功を挙げ、これらが認められて翌年には従四位下・侍従に叙任しています。

また、秀吉から羽柴姓を与えられ、秀吉子飼いの猛将の一人として七将と呼ばれるようにまでなります。

ちなみに、他の6名は、福島正則、加藤清正、池田輝政、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政という面々でした。

一方で、妻のガラシャは、1987年にキリシタンとして洗礼を受けています。

ガラシャという洗礼名を名乗るのもこの時からですが、やがて秀吉がキリスト教禁止令を出したことで、公にはキリシタンとして活動できなくなりました。

豊臣政権下で順調に出世を遂げていた忠興ですが、1595年に秀吉の後継者として関白の地位にあった秀次が謀反の疑いで自害させられたことにより大きな危機を迎えます。

事件の後に、忠興が秀次から借金をしていたことが明らかになり、謀反に加担していたのではないかという疑いを掛けられたのです。

この時、忠興を助けたのが徳川家康であり、これにより両者は接近していきます。

1598年に秀吉が死去すると、忠興は家康に仕えることになりますが、表向きは豊臣家の家臣という位置付けのままでした。

ガラシャの死

秀吉の死後、五奉行の筆頭であった石田三成と家康の対立が激化していきます。

1599年、忠興は、加藤清正や福島正則といった七将の他の武将たちともに、かねてより関係が良くなかった三成襲撃を計画します。

しかし、三成が機転を利かせて家康の下に逃げ込んだことにより、この計画は未遂に終わりました。

この年、家康の推挙により、忠興はこれまでの丹後12万石に加え、新たに豊後に6万石が加増され、合計18万石の大名になります。

1600年、家康は上杉景勝に謀反の動きありとして、会津征伐の軍を起こします。

この時、忠興は、豊臣恩顧の大名の中でも早くから家康に味方することを明確にし、これにより多くの大名が追随することになりました。

会津征伐の間隙を縫って、三成は挙兵し、東軍に与した諸大名の妻子を人質に取ろうとします。

ガラシャも西軍から人質になるよう迫られましたが、これを受け入れず自害する道を選びました。

但し、キリシタンは自死を禁止されているため、実際には家臣に殺させたということです。

「ちりぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」という辞世の句が残されています。

愛妻を失った忠興は、関ヶ原で石田隊の島左近らと激闘を演じ、大きな功績を挙げ、戦後はこれが認められ、豊前中津39万石に加増されて中津城主となり、やがて小倉城に居を移します。

1615年の大阪の陣にも参戦しましたが、この時、二男の興秋が豊臣方についたことで、切腹させることを余儀なくされています。

1620年、58歳となった忠興は、三男の忠利に家督を譲り隠居しました。

その後、1632年に細川家は肥後54万石の大守として転封となり、忠興もこれに従って肥後入りすることになります。

1646年、肥後八代において没。享年84歳という長寿でした。

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