関ヶ原に散った名将・大谷吉継~真田信之・信繁兄弟とは意外な関係も~

日本史に想いを馳せる

大谷吉継は、知勇兼備の名将として知られていますが、石田三成との友諠に殉じて関ヶ原に散った悲運の将というイメージが強いのではないでしょうか。

2016年にNHK大河ドラマ「真田丸」では、歌舞伎役者のラブリンこと片岡愛之助さんが演じて、渋い役柄を醸し出していますが、実際の吉継の生涯は病との戦いでもありました。

意外と知られていないのは、娘が真田信繁(幸村)の妻であったということです。なので、その兄の信之とも姻族関係ということになります。

ドラマでは女優の松岡茉優が「春」という名前で演じていますが、史書などでは竹林院と呼ばれることが多いようです。彼女は大坂夏の陣後も生きながらえ、1649年に京都で生涯を終えています。
今回は、この吉継の生涯を追ってみたいと思います。

秀吉の家臣として


大谷吉継は、1559年、近江国の武士である大谷吉房の子として生まれたとされています。

ただし、これにはいくつかの説があり、生年や父親については確定した見解はないようです。

当時羽柴姓を名乗っていた秀吉に仕えたのは、1574年、吉継が16歳の頃であるとされています。一説には、同じく近江出身の石田三成の口利きであるとも言われています。

1577年には秀吉の中国攻めに参陣し、三木城や高松城などの攻城戦にも参加しています。

もっとも、特に目立った功績を上げたという記録はあまりないようですし、この時期の吉継の足跡について確かな資料も残っていないようです。

1582年に本能寺の変で織田信長が横死すると、秀吉はその後継者としての地位を着実に固めていきます。

この過程で柴田勝家との間で賤ヶ岳の戦いが勃発しますが、この際に勝家方の長浜城主であった柴田勝豊を調略して内応させ、合戦においても加藤清正や福島正則などのいわゆる七本槍に匹敵する勲功を挙げています。

これ以降、調略面の功績が評価されたのか、武断派とは一線を画し、官吏面での才をかわれるようになっていきます。

病との戦い

吉継は20代後半くらいから業病(ハンセン氏病)に侵されていたようで、1586年に大阪で起きた「千人斬り」と称して人々を斬殺する事件では、これは吉継が病治癒のため血を求めて行っているという噂がたったこともあるようです。

もちろん根も葉もない噂ではありましたが、病気のことは世間に広く流布していたようですね。

他にも、この病気にまつわるエピソードとして、「白頭」と署名されている吉継の書状が残っていたり、「渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門」という法名にも「白頭」が含まれていたりするのですが、この「白頭」は病気で崩れた顔を隠すため白頭巾をかぶっていたゆえという説があります。

また、有名なところでは、大坂城での茶会の席で、秀吉の家臣が茶碗の回し飲みした際に、吉継が口をつけた後はみな嫌って飲むふりをしてばかりだったにも拘らず、ただ一人石田三成だけはその茶を飲み干したというものがあります。

これが、後の関ヶ原の戦いで吉継が西軍として参戦した一因であると言われていますが、この話の信ぴょう性はいささか疑わしいと思われます。

天下人の能吏

1586年の九州征伐では、兵站を担った石田三成の下にいて、功績を立てています。同年に、三成が堺奉行となると、その配下として実務を担当し、この頃には奉行格に列していたことが分かっています。

1589年、31歳になった吉継は、越前の敦賀に5万7千石を拝領し、敦賀城主となります。

その後、1590年に起きた小田原城攻めの際には、石田三成とともに忍城の水攻めを行いますが、この時は北条方の頑強な抵抗にあって失敗しています。続く奥州仕置では、出羽の検知を担当するなど、この頃は官僚的な活躍が光っています。

続く1592年の文禄の役(朝鮮出兵)にも出陣し、軍監として自ら渡海するなど、秀吉政権の要人の一人として重要な位置にいたようです。

しかしながら、1598年、吉継が40歳の時に秀吉が逝去し、これによって運命は大きく動き始めます。

決戦・関ヶ原

意外にも秀吉の死後、吉継は、徳川家康に近づきます。

もともと、両者の関係は良好であったことや、吉継が特定の派閥に入り込んでいなかったことが背景にあるようですが、バランス感覚に優れていたことが分かる逸話ですね。

しかしながら、天下を狙う家康は秀吉の遺志に反して次第に独断で政治を行うようになり、これを糾弾する三成などとの対立が深まっていきます。

1600年には、上杉討伐のために家康が東国に出陣する事態となりますが、この時に吉継は家康に従軍して出陣しています。

三成に勝ち目のないことを見通していた吉継は、何とか家康と和睦させようと三成に使いを出して三成自身か子の石田重家の上杉征伐への同道をすすめますが埒が明かず、自ら佐和山城へ向かい三成と会談します。

しかしながら、三成の決意は変わらず、逆にその思いを知って、形勢不利であることを承知で三成方に与することにしたのでした。

関ヶ原の本戦では、緒戦で藤堂高虎隊と激闘を演じるなど、劣勢の西軍にあって奮闘を見せます。慧眼だったのは、かねてより小早川秀秋の裏切りを予想していたことで、これに備えて脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らの諸将を配置していました。

予想通り小早川勢が大軍をもってして裏切ると、大谷隊はこれを少数で迎撃し、押し返すことに成功しています。しかしながら、想定外に脇坂・朽木・小川・赤座の諸隊が裏切りによる横槍をまともに受けたことで隊は壊滅し、奮闘むなしく自刃しました。

「契りあらば六つのちまたに待てしばしおくれ先立つたがひありとも」という辞世の句が伝わっています。

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