秀吉・家康に阻まれ天下を狙えなかった織田信雄~織田信長の子としての苦悩の人生~

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少し前のことですが、1582年の本能寺の変後に、織田信雄が羽柴秀吉に宛てた書状が見つかったという発表が中京大から出されました。

書状には、「(周辺から)秀吉の近くに陣を移そうとしたが、適切な場所がわからなかったので、まずは北方(三重県北部か岐阜県北方町)に陣を置きました。そちらでよきように決め連絡をください。また連絡します。なお、連絡あり次第、行動します」などと書かれていたようです。

この信雄は、織田信長の次男とされている人物ですが、信長の後を継いで天下を取ることはできず、秀吉、家康という天下人に臣従することで生涯を全うしています。

必ずしも後世の評価は高くありませんが、激動の時代を生き延びたその処世術には参考にできる点があるのではないでしょうか。

織田信長の次男から北畠家の当主に

織田信雄は、信長の次男として1558年に誕生しています。

母親は信長の側室であった吉乃で、三男とされている信孝が実は次男で信雄は本当は三男だったという見解もあります。

幼名は茶筅丸(ちゃせんまる)。何でも、茶筅が結えそうな髪型をしていたことからそう名づけられたそうです。

兄の信忠が奇妙丸、弟の信孝が三七(3月7日生まれのため)という幼名を見ても、信長のユニークなネームセンスが見て取れますね。

母の吉乃は、信雄が9歳の時に病没してしまい、1570年、13歳になった信雄は、伊賀攻めの際の和睦の条件として、北畠具教の養嗣子となります。

その後元服し、北畠具豊と名乗るようになりました。

北畠家は、南北朝期に南朝方として後醍醐天皇を支えた北畠親房、顕家父子を祖先に持つ名門で、親房の三男の顕能以降、伊勢の地を本拠として戦国時代まで命脈を保っていました。

1575年には、義父である具教から正式に家督を譲り受け、その際、北畠信意と改名しています。

しかし、その翌年には義父である具教やその一族を殺して、北畠家を乗っ取ることに成功しました。

ここまで順調に来ていた信雄ですが、最初に躓いたのが、1579年に信長の許可を得ずに独断で行った伊賀攻めです。

当時、伊賀は惣国一揆によって支配されていたのですが、第一次天正伊賀の乱と呼ばれるこの戦いにおいて信雄は大敗を喫してしまいます。

これには信長も激怒し、「親子の縁を切る」などと書状で叱責されました。

その2年後の1581年に、信長は伊賀平定の号令を発し、第二次天正伊賀の乱と呼ばれる戦いを経て伊賀は平定されます。

信雄には、伊賀4群のうち3郡が与えられていることから、この頃には信長の勘気は解けていたようですね。

本能寺の変と清州会議

1582年、天下布武に邁進していた信長が、本能寺において明智光秀に討たれたことによって、信雄の人生にとって大きな転機が訪れます。

変が発生したとき、信雄は軍を率いて近江まで進出するも、光秀と戦うことなく撤退しました。

結局、光秀は、毛利攻めからの大返しを成功させた羽柴秀吉によって山崎の戦いで打ち取られることとなり、これによって織田家中の主導権は秀吉が握ることになります。

続いて、信長の後継者を決める清州会議が開催され、信雄は後継ぎの座を狙うもののその野望は秀吉が信忠の嫡男の三法師、柴田勝家が信孝を推したことであえなく潰えました。

もっとも、この会議で信雄は、従来の伊勢と伊賀に加えて、信忠の遺領である尾張を拝領し、合わせて100万石の大大名の地位を得ました。

実はこの時まで北畠信意を名乗っていたのですが、ここでようやく織田姓に復して名も信雄に改めています。

秀吉との対立から臣従へ

清州会議後、秀吉と勝家の対立が激化していきますが、信雄は勝家が担ぐ弟の信孝との折り合いが悪かったことから秀吉方に加わります。

結果的にはこの選択は正解で、両者が矛を交えた賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家は秀吉に追い詰められて自害することになります。

これに先立ち、信雄は降伏した信孝を自害に追いやっており、織田家における地位を高めたかに見えました。

しかしながら、秀吉の権勢が高まるにつれ、信雄は秀吉と次第に対立するようになります。

1584年になると両者の関係は決定的に悪くなり、百戦錬磨の秀吉の策略にはまった信雄は、家老であった津川義冬・岡田重孝・浅井長時を手討ちにしてしまいました。

これによって攻撃の口実を得た秀吉に対抗すべく、信雄は徳川家康に援軍を乞い、ここに小牧・長久手の戦いが発生します。

この戦いは軍事的には家康が勝利を収めるものの、信雄は秀吉からの度重なる揺さぶりを受けて単独で講和する道を選びます。

これにより家康も戦いの理由を失うことになり、こちらも秀吉と和睦しました。

このため、戦略的には秀吉が勝ったとも言われています。

以降は秀吉に従うことになり、越中の佐々成政攻めや薩摩の島津攻めにも秀吉の命を受けて従軍しています。

改易を経て御伽衆に

1590年には、北条氏が籠る小田原城攻めにも出陣し、戦後は秀吉から関東に転封されることになった家康の旧領である三河、遠江、駿河への移封命令を受けるも、これを拒否してしまいます。

これにより秀吉の怒りをかった信雄は、領地を没収され、常陸の佐竹家に預けられることとなりました。

しかしながら、家康のとりなしもあって、1592年には許されることとなり、改めて秀吉の御伽衆として復帰しています。

この時大和に領地を与えられるもわずか1万5千石と100万石を超えた最盛期からするとわびしいものでした。

1598年に秀吉が没すると、天下の趨勢は家康に傾いていきます。

関ヶ原以降

その家康は、1600年に関ヶ原の戦いにおいて石田三成など自身に反感を持つ諸将を打ち破り、天下人への地位を固めます。

このとき信雄は東軍に与し、関西の情報を送っていたとも言われていますが、結果的には傍観することになり再び改易される目にあいました。

その後は引き続き豊臣家に出仕していたようですが、大坂冬の陣の直前に徳川方に転身しています。

一説には、信雄は大坂方の情報を家康に伝達する役目を帯びていたとも言われており、そのような功績が認められてか、戦後上野と大和に5万石を拝領し、大名に復帰することができています。

このように何度も改易と復活を繰り返した信雄ですが、1630年に京都においてその生涯を閉じました。享年73歳。

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