今から27年前の1995年1月17日に、阪神間を未曽有の大地震が襲いました。自分はまだ中学生でしたが、被災者の一人として、今でもその当時の様子は鮮明に記憶しています。社会の記憶が薄れつつある中、少しでも多くの人に知ってもらうべく、自分なりに震災の様子を書き残したいと思います。
地震発生時の様子
阪神・淡路大震災が発生したのは、まだ日が昇る前の午前5時46分のことでした。
当時まだ中学生だった私は、実家の2階にある自室のベッドで就寝中だったのですが、突然の突き上げるような大きな揺れに目を覚まし、その凄まじさに布団にもぐってじっとしているしかできませんでした。
揺れはひどくなる一方で、やがて室内の本棚から物が次々に飛び出してきました。
幸い本棚が倒れることはありませんでしたが、揺れが収まって部屋の外に出ると、父親がガラスが落ちているから動かないようにと叫んでいる声が耳に入りました。
階段の上からぶら下がっていたライトが左右に振られて壁にぶつかり、木っ端みじんになってしまっていたのです。
周囲の様子を確認しようと電気のスイッチを押しても、停電してしまっていてうんともすんともいいません。
何とか懐中電灯を探し当てて、その光を頼りに1階に降りると、置いてあった多くのものが床に転げ落ちてしまっていました。
もっとも、不幸中の幸いだったのは、食器棚が閉じたままだったため、その中に入っていた食器がほとんど無傷だったという点です。
地震の揺れの方向に食器棚を置いていたため、激しい揺れにもかかわらず倒壊や扉が開くといった事態が避けられたようでした。
その日は平日だったので、家の周りの様子を確認した父親はその足で大阪にある職場の様子を見に行きました。
当然、電車はすべて止まっており、道路も大渋滞になっていたので、自転車で2時間ほどかけて会社までたどり着いたとのことでした。
電気に加えて、ガスもストップし、おまけに水道まで出ないという悲惨な状態に陥ったのですが、なぜか駐車場の水道だけは出たので、水に困ることはありませんでした。
翌日以降の生活
地震発生の当日は、周りの様子を確認するだけで精いっぱいだったのですが、翌日になって被害の状況が次第に明らかになってきました。
依然として電気が止まっているため、テレビを見ることはできませんし、今のようにスマホもない時代でしたので、情報はラジオに頼るしかありませんでした。
電話は回線がパンクしていてほとんどつながらなかったのですが、たまたま繋がった中学の友人から同級生の中にも被災した者が何人かいることを聞かされ愕然としたことを覚えています。
当時、神戸の学校に通っていたので、同級生の中には同市内に住んでいる友達もたくさんいたのですが、そのうちの一人は両親を同時に亡くてしまったと後になって聞かされました。
また、仲の良かった友人の自宅が全壊し、うちの近くに身を寄せているということでしたので、何とかして連絡を取ろうと悪戦したことを覚えています。
寒い時期に電気とガスが同時に使えなくなったので、喫緊の問題はいかにして暖をとるかということでした。
幸い、実家では石油ストーブを使っており、石油の蓄えもたくさんあったので、それを使って難局をしのぐことができました。
また、石油ストーブのうえにやかんを乗せてお湯を沸かすことができたため、温かい食べ物を口にすることもできたのです。
一番頭を悩ませたのはお風呂です。実家の周りは比較的被害が少なかったのですが、それでもガスが復旧するまでは1か月以上を要しました。
その間は、大阪方面にいる遠い知り合いの家までお風呂を借りに行ったりしていたのですが、しばらくして電気が復旧すると、熱帯魚用のヒーターとやかんで沸かしたお湯を使って浴槽にお湯を貼れるということに気付いたのです。
学校生活への影響
当時神戸にある私立中学まで電車で通っていたのですが、地震によって線路が壊滅的な被害を受けたために、1か月近くにわたって休校となりました。
その間、前述した家が全壊した友達と連絡を取って家まで風呂に入りに来てもらったり、倒壊しそうな彼の家まで行って中に残されている家財の搬出を手伝ったりといった日々を過ごしていました。
後から聞いたところによると、搬出作業を行った翌日に彼の家は完全に倒壊してしまったそうです。
もし、その時に作業を行っていたらと考えるとゾッとしました。
地震から1ヶ月が経っても電車は一部区間が復旧したものの、全面復旧には遠い状況で、その代わりに鉄道各社が代替バスの運行を始めました。
それを受けて、中学も再開の運びとなったのですが、代替バスは通勤客などで満員で、ほとんど使い物になりませんでした。
また、電車の運行が再開された区間では、多くの人が殺到したために、ホームの外まで人であふれかえるような状態だったのです。
とてもバスは使えないと思い、しばらくの間は電車で行けるところまで行って、そこから学校まで歩いて通っていました。
徒歩で片道1時間半ほどかかったのですが、意外と苦にはならなかったことを覚えています。
倒壊した数多くのマンションや戸建て住宅などを横目に見ながら黙々と登校する様子は、はた目には異常な光景に見えたかもしれません。
それ以降は、実家でお風呂に入れるようになり、生活のクオリティは飛躍的に良くなりました。
普段通りの生活へ
地震から3か月ほどが経過して、高校に進級するくらいになると、日々の生活もようやく少しずつ落ち着きを取り戻してきました。
電車は依然として全面開通には程遠い状況でしたが、少しずつ不通区間が減ってきたため、通学の苦労も軽減され、学校へは1時間ほどで行けるようになりました。
また、部活も再開し、ようやく震災前に近い生活ができるようになったのです。
しかしながら、辺りを見回すと、がれきの撤去作業が始まったばかりで、いつになったら復興できるかまったく分からないような状態でした。
子供というのは無邪気なもので、そのような中でも友達と一緒にゲーム談議に花を咲かせたりしていました。
色々大変な思いもしましたが、今思うと意外にも充実した毎日を送っていたのではないかと思います。
もっとも、それ以降、少しの揺れでも身体は敏感に反応するようになったので、精神的には依然として大きなトラウマになっているようです。
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